神の形に創られた人間

「神の形に創られた人間」創世記1章24~31節

神様は天地全ての創造を六日間で終えられました。その創造の最後に創られたのが人間です。そして聖書は私たちにこのように教えています。26節「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』」神はなぜ、人間を特別に神に似せて創造されたのでしょうか。その次に人間が神に似せて創られた目的が記されています。26節後半「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配するように。」神がご自身に似せて人間を造られたのは、神に代わって人間がこの地上を支配し、神様の御心に叶った世界を作るためでした。そのため、神様は人間をご自身に似せて創造されたのです。それゆえ、人間が神の形に似せて造られたとは、人間と神が対話できる存在として造られたということ、神と対話できる特別な存在として、神様からの特権が与えられたという事です。しかし、私たちの先祖アダムとエバは罪を犯しエデンの園から追い出され、神と対話できる特権を失ってしまいました。神様に退けられた人間は、神様の御心に叶った世界を造ることができたでしょうか。人間は神の御心に叶った世界を創るどころか、自分の欲望を満たすために、この地上を悪で満たしてしまいました。ノアの洪水のお話しは、神様の審判、悪の増大した世界を滅ぼすためでした。神はこの時、全ての人間を滅ぼし、神の創造の御業を初めからやり直すこともできました。しかし、ノアだけは神様の御心に叶い、神様はノアに地上を造り直すチャンスを与えられたのです。しかし、ノアの家族も神様の御心に叶う世界を造ることはできませんでした。また、現在も、神様の御心に叶う世界ではありません。終末とか世の終わりという言葉は、神が人間にこの地上を御心に叶う世界を造るためにご自身に似せて創造されたのに、この地上を悪で満たしてしまった故の神の審判の下る日を言うのです。

はたして、罪を犯して神様から退けられた人間は、神の存在を理解できない者になってしまったのでしょうか。そうではありません。神がご自身に似せて私たちを創造してくださったことは、たとえ、私たちが罪を犯しても変わりがない事です。ただ、罪を犯した私たちは神との正しいコミュニケーションの方法を失ったというだけです。そのことは、世界中で神々が崇められていること、また、人間が神を恐れていることで証明されます。また、新約聖書において、パウロはローマ人への手紙の中で、私たちは被造物(神によって作られた物)によって神を知ることができると教えています。例えば、人間の体を見ても、偶然に生まれた者とは思えません。また、自然を見ても、私たちは神の存在を感じます。それは、私たちが神様に似せて造られているからです。

では、どうすれば私たちは神様との関係を回復することができるのでしょうか。

(1)私たちの罪の問題を解決する。

もともと、私たちが神様から退けられたのは、私たちが罪を犯したからです。旧約聖書はそのために、動物の犠牲をささげるように教えています。しかし、動物の命では、私たちの罪を完全に贖うだけの価値がありませんでした。それは、あくまでも、救い主による救いを私たちに教えるために与えられた教えでしかありませんでした。そして、罪の無い神の子イエス様が人として生まれてくださり、私たちの罪の身代わりとして死んでくださったのです。

(2)イエス・キリストを救い主として信じる。

イエス様は弟子たちとお別れになる前、彼らに言われました。ヨハネの福音書14章16節17節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」イエス様は、十字架で死んで天に昇って行かれただけではありません。イエス様はご自身の代わりに、信じる全ての人に聖霊を与えるために、父のもとに昇られたのです。そして、あのペンテコステの日に、弟子たちに約束された聖霊が下り、弟子たちは変えられ、教会が誕生したのです。

私たちは、イエス様を信じることによって神の子としての特権を回復しました。では。私たちは具体的にどのようにして神様との関係(コミュニケーション)を回復したのでしょうか。

(1)祈りにおいて。
私たちの祈りは、一方通行ではありません。神様は私たちの祈りに応えて下さいます。すぐに答えを得ることもあれば、時間がかかる場合もあります。しかし、どんな祈りでも、私たちの祈りは聖霊によって神様に届けられているのです。

(2)聖書によって。
聖書は神の言葉であり、道徳の書や歴史の本ではありません。私たちが毎日、聖書を読む必要があるのは、そこに、神様の導き、助けがあるからです。歴史の書であるなら毎日読むこともなく、また、何度も同じ本を読む必要はありません。しかし、聖書は神の言葉です、神の言葉は、時代を超え国を超えて私たちに対するメッセージなのです。それゆえ、10年前に読んだ時、意味のわからない聖書の箇所が、ある時、具体的に助けになることがあります。それが、神の言葉は生きているという事です。

私たちは、イエス様によって神様との親しい関係を取り戻しました。聖霊様はすでに私たちの心の中に住んでおられます。では、私たちはその特権を有効に活かしているでしょうか。私たちの祈りがイエス様を信じる前のように困った時の神頼み程度の祈りになっていないでしょうか。私たちの祈りは聖霊によって父なる神に届けられています。そのことを信じてこれからも神様に祈って行きましょう。