神の恵みとしての試練

「神の恵みとしての試練」サムエル記第一 24章1節~7節

苦しみにも色々な意味があります。神様から与えられる特別な苦しみを試練と呼びます。ダビデが少年の頃、神様は預言者サムエルを通してダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とされました。その後、琴が上手なダビデは、サウル王の心を静めるために、サウル王の近くに召し出されました。また、成人したダビデは、軍人としても大きな成果を上げ、イスラエルの国でも有名な軍人として成長しました。しかも、その人気は、サウル王をしのぐほどとなり、サウル王はダビデに嫉妬し、ダビデを殺そうとたくらむようになりました。ダビデは何度も、サウル王に殺されそうになりますが、神様がダビデの命を守り助けました。しかし、しだいに、サウル王から逃げられなくなり、ダビデは、荒野に身を隠さなければならなくなりました。家を追われ、住むところを失くし、荒野で暮らすダビデはどんなに辛い毎日だったでしょう。また、それが何日も続き、ダビデの一日一日は、死と隣り合わせのような日々でした。

ダビデのこの苦しみは、ダビデ自身の罪によるものではありません。サウル王が一方的にダビデを憎み、殺そうとたくらんだことです。しかし、その背後に神様の計画がありました。ダビデはこの苦しみに耐え、神様のみに信頼することを学ばなければならなかったのです。イスラエルの一番目の王様サウルは、思いがけず神様によって王に任命されました。しかし、十分な準備がなかったゆえに、王になって大きな権力と力を持った時、サウルは神様の計画に従わないで、自分の考えを優先する者になってしまい、神様から退けられてしまいました。人間が大きな権威と力を持つと、自分を神のように思い、神様に従わない者になってしまいます。それは、自己中心であり、大きな罪です。神様はダビデには、そのような者になってほしくはなかったので、神様はあえてダビデに試練を与え、特別に訓練されたのです。

プロ野球選手で、日本ハムの中田翔選手は、甲子園で活躍し、期待されてプロになりました。しかし、プロになっても思うような結果を出すことができませんでした。一軍と二軍を行ったり来たりで、一軍に定着することができませんでした。ある時、彼は気が付いたそうです。今まで彼は、自分の才能でプロでもやっていけると考えていたそうです。それゆえ、練習の後は、仲間と遊びに行ったり、酒を飲みに行っていたそうです。ある時から、彼は、自分の才能だけではプロでやっていけないと気が付き、それからは、練習の後、仲間と遊びに行ったり、飲みに行ったりしないで、自主トレーニングをするようになりました。その後、一軍に定着し、日本ハムではなくてはならない選手に成長したのです。ホームラン王の王貞治選手も、練習の後、自分の部屋にこもり、何百回と鏡の前で素振りをしていたと聞いたことがあります。ダビデは王としての素質は素晴らしいものを持っていました。しかし、イスラエルの王となるためには、まだ、まだ、神様の訓練が必要だったのです。

先程、サムエル記第一の24章をお読みしました。この個所は、ダビデの信仰を神様が試された個所です。ダビデたちが隠れていたほら穴に、サウル王が、用を足すために、入ってきました。ダビデにとってサウル王を殺す絶好のチャンスです。ダビデの部下はダビデに言いました。4節「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われたその時です。」そこでダビデはどうしたでしょうか。ダビデは、サウル王の上着のすそを、こっそり切り取りました。そして5節6節「こうしての後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」皆さんでしたらどのように行動するでしょうか。自分のいのちを狙う者が目の前に無防備で座っています。ダビデの部下が言うように、神様が与えてくださったチャンスと思うでしょうか。普通の人であるなら、部下の言う通り、サウルを殺して、苦しみから逃れようとするでしょう。しかし、ダビデは違いました。いくらサウル王が理不尽に自分のいのちを狙うからといって、神様が選ばれた王を自分の手で殺すことは、神様の御心ではないとダビデは考えたのです。先ほどのダビデの部下の意見は、実は、ダビデを主体とした考え方です。サウルを殺せば自分は楽になる。しかも、サウル王に代わって自分がイスラエルの王に成れるかもしれない。しかし、ダビデは、神様を主体として考えていました。神様が選ばれた王を罪人である人間が、自分の利益のために殺すことが神様の御心だろうか、神様が喜ばれるだろうかとダビデは考えたのです。サムエル記第一の26章でもダビデはサウルを殺すチャンスがありました。しかし、ダビデは自分の部下にこのように言っています。10節「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに降ったときに滅ぼされるからだ。」ここでも、ダビデはサウル王の水差しと槍を盗むだけで、サウル王のいのちには手をかけませんでした。そして、サウル王を起こし、自分がサウル王に殺意がないことを示したのです。ダビデは自分の手で、サウル王を殺すことによって苦しみから解放されることを望まないで、神様の手にゆだね、神様の御手がサウル王に降り、神によって裁きが行われることを選んだのです。サウル王は、神様の命令を無視して自分の思いを優先し、神様に退けられました。ダビデは、苦しみの中でも、自分の意思ではなく、神様の御心がなされることを選んだのです。ここにダビデの信仰と忍耐を見ます。ヤコブの手紙1章3節「信仰が試されると忍耐が生じるということをあなたがたは知っています。」とあります。まさに、ダビデはこの試練を通して、忍耐を学び、信仰が深められていったのです。12節「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」とあります。試練は決して喜ばしいものではありません。しかし、試練や苦しみを通らなければ学ぶことができないこともあります。また、神様は試練や苦しみだけを与えられるお方ではなく、コリント人への手紙10章13節に「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあります。また、神様は苦しむ私たちと共におられるお方です。そこに、私たちは、神様の慰めと励ましを見出すことができます。苦しみに出会った時、私たちは何に頼るでしょうか。自分の知恵、力、目に見える助け。しかし、ダビデはこの苦しみの中、神様だけに助けを求めました。ダビデはこの苦しみを通して、自己中心の信仰ではなく、神中心の信仰をもつに至ったのです。