神の愛と悔い改め

「神の愛と悔い改め」ローマ人への手紙2章1節~11節

人間の罪の問題に関して、「性善説」と「性悪説」の二つの立場があります。「性善説」は儒教などで教えられ、「人間は生まれたときには罪が無いが成長するにしたがって悪を身に着ける」と考えます。「性悪説」は聖書的な立場で、「善なる神は人を善なるものと創造されたが、人類の先祖アダムとエバが神に罪を犯したため、その子孫である全ての人は、罪を犯しやすい性質『原罪』を持って生まれる。」という考え方です。私たちクリスチャンも神様を信じて罪の無い者にされたのではなく、罪赦された者として依然として罪を犯しやすい原罪をも持っていることには変わりがありません。

しかし、神は罪人である私たちに悔い改めるという恵みを下さいました。「悔い改める」とは新約聖書のギリシャ語では「メタノイア」という言葉が使われ、その意味は「心を転じる」とか「方向を変える」ことを意味しています。マタイの福音書3章で、イエス様が登場する前に、バプテスマのヨハネが登場し「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」とユダヤ人の群衆に呼びかけました。その意味は、律法学者パリサイ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫だからユダヤ人には罪が無いと教えていました。また、彼らはユダヤ人以外の民族を「異邦人」と呼び、彼らは汚れた民だから近づいてはいけないと教えていたのです。バプテスマのヨハネは、律法学者パリサイ人たちの教えを否定し、ユダヤ人も異邦人を同じ罪人であるから、今までのユダヤ人としての選民意識を捨てて、異邦人と同じようにバプテスマ洗礼を受けるように群衆に叫んだのです。それを聞いた群衆の多くは、バプテスマのヨハネのことばに心刺され、多くのユダヤ人たちが、洗礼を受けるためにバプテスマのヨハネのもとに集まって来たのです。

これはユダヤ人だけの問題ではありません。日本人は仏教の影響で、死んだ人は全て天国に行けると考えています。しかし、聖書的な考えではそうではありません。聖書は明確に罪ある者は天国に入ることができず、罪を行った者は、自分の罪のゆえに、神の裁きを受けなければならないと教えています。罪とは、人を殺すとか物を盗むということにとどまりません。物を盗まなくても、人の物を欲しいと思っただけで、神は物を盗んだものと同じ罪に定められます。人を殺したいと憎んだら、人を殺さなくても、人を殺した人と同じ罪に定めます。なぜなら、私たちは人の心の中を見ることができませんが、神は私たちの心の中をご存知だからです。また、最後の審判は人が人の罪を裁くのではなく、神が人の罪を裁くのです。それゆえ、すべての人は、最後の審判の時、神の前に立たなければなりません。罪を犯した者は、自分の犯した罪に従って裁かれます。しかし、クリスチャンは、神の子イエス様の十字架の死は自分の罪の身代わりであることを信じているので、イエス・キリストによって罪赦された者として神の前に立ち、神の裁きに遭うことがなく、天の御国に入ることができるのです。

パウロは、ローマ人への手紙1章18節から異邦人の罪について説明しています。20節の「被造物」とは神に造られた物のことで、神様は全ての人に、被造物を通して神様の存在について知ることができるようにされました。ところが、彼らは、それでも人間や鳥、獣を神として拝む者になってしまいました。そして、2章1節の「すべて他人をさばく人よ。」とは、今度はユダヤ人のことを指しています。ユダヤ人は真の神を知っている者として、真の神を礼拝しない異邦人を罪に定めました。しかし、パウロはユダヤ人も完全に神様の戒めを守っていないので、あなた方も自分の罪のゆえに神の裁きを受ける者だと、ユダヤ人の罪を批判しているのです。

悔い改めとは、自分の罪を認め、今までの生き方を変える、方向転換をすることを意味しています。しかし、それで私たちの罪が赦されるわけではありません。私たちの罪が赦されるためには、私たちの「罪の身代わり」が必要です。しかも、その者は罪の無い者でなければなりません。罪が無いのは神様だけです。しかし、神は私たちと同じ肉体を持っておられないので、身代わりに死ぬことは出来ません。そこで、イエス・キリストは神の子であられるのに、私たちの罪の身代わりとして死ぬために人として誕生して下さり、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死なれたのです。神はどうしてそれほど大きな犠牲を私たちのために支払ってくださったのでしょうか。その答えは「神の性質が愛だからです」神は私たち罪人が自分の罪で滅んでいく姿をだまって見過ごすことはできませんでした。私たちを罪から救うためには、一人子イエス様の命を私たちの身代わりとして、差し出す以外に私たちの助かる道はありませんでした。神は自らひとり子を犠牲にする苦しみを負われ、私たちを救うためにイエス様を地上に送って下さったのです。また、イエス様も父なる神に従って自らの命を十字架の上でお捧げになられたのです。その根本にあるのは、神の私たちに対する愛以外になにものでもありません。

私たちはそのような罪人を赦す、神の愛を信じることができるでしょうか。イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダは決してイエス様が殺されることを願って、イエス様を裏切ったわけではありません。イスカリオテ・ユダの裏切りには諸説意見がありますが、決してイエス・キリストの死を願った行為ではなく、サタンにそそのかされた行為です。彼自体は、イエス様が捕らえられても、無実ですぐに釈放されるだろうと考えていました。それゆえ、ただ単に、祭司たちに協力してお金を儲ければいいぐらいにしか考えていませんでした。ところが後で、イエス様が十字架に付けられ殺されたことを聞いて、びっくりして、祭司たちにお金を返しに行きましたが、祭司たちは彼のお金を受け取りませんでした。それゆえ、彼は、神殿にお金を投げ入れた後、首を吊って自殺してしまったのです。自分の行った罪の重さに耐えられなかったのでしょう。ペテロもイエス様の裁判の場で、イエス様を知らないと三度、言ったことは、神様に対して大きな罪を犯したことにはかわりありません。しかし、彼は、自ら自分のいのちを断とうとはしませんでした。イエス様はそのペテロに復活した後、現れて、三度、あなたはわたしを愛するかと声をかけてくださいました。ペテロはそのイエス様の声によって、立ちなおって、後に、12使徒の頭としての働きをしました。イスカリオテ・ユダとペテロの何が二人の行為を分けたのでしょうか。イスカリオテ・ユダはあまりの罪の大きさに神様の赦しの愛を信じることができませんでした。しかし、ペテロは最後までイエス様の愛から離れませんでした。ここに、二人の生涯を分ける、大きな分かれ道があったのです。神様の愛は、正しい者、立派な者、価値のある者だけを愛する愛ではありません。ご自分のいのちを犠牲にして罪人を愛する愛です。しかし、神は私たちが自分の罪を認め、悔い改めなければ私たちを罪から救うことは出来ません。人間の考えでは、そのような神の愛を信じることは出来ません。しかし、神様の愛は、私たちの愛より、比べることができないほど大きな愛です。それを信じる時、私たちはたとえどんな罪を犯した者でも、神様の愛にすがることができるのです。