神の愛と母の愛

「神の愛と母の愛」ローマ人への手紙5章6節~11節

母の日は、アメリカの教会から始められた記念日です。約百年ほど前、長年、教会学校で奉仕してこられた一人の女性が天に召されました。彼女の娘アンナは、母の追悼会の日に、母の好きなカーネーションを母に捧げました。その追悼会に出席した多くの方々が、そのアンナの姿に感動し、アメリカの各地で母の日が行われるようになったそうです。後に、1914年アメリカの議会は第二日曜日を母の日と定めました。その後、この習慣が世界中に広がり、日にちは違いますが、世界中で母の日を祝うようになったのです。

新約聖書はギリシャ語で書かれました。その新約聖書のギリシャ語の中で「愛」ということばが三種類使われています。「エロス」「フィレオー」「アガペー」です。エロスは主に、男女の愛の時に使われます。また、フィレオーは、友情や家族の愛の時に使われます。アガペーと言うことばは、神様の愛の時だけ用いられることばです。アガペーという愛は、見返りを求めない愛、一方的に与える愛と言われています。先程お読みしたローマ人への手紙の5章の中で、8節「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。「罪人であったとき」ということばが大切です。キリストの身代わりの死は、立派な人や正しい人のための身代わりの死ではなく、罪人のための身代わりの死であたという事です。7節を見ると「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。」とあります。確かに、人は自分の愛する者、愛する国のために死ぬことはあります。しかし、自分と関係ない人や、まして罪人のために身代わりに死ぬ人はいません。神のみが罪人のために身代わりに死ぬことができるお方です。それゆえ、アガペーの愛は神様だけが持つ愛なのです。

創世記の1章で、神様は人をご自身に似せて創造されたとあります。似せてとは、外見を神様に似せてと言う意味ではなく、神様の性質に似せてという意味があります。それは、神様に似せた感情があるという事です。神様は人間だけではなく、すべての生き物に感情を与えられました。母性本能とは、すべての動物に共通する感情です。それによって、子の命が守られ、子供を育てるために与えられた感情です。鷲がひなのいる巣に近づいたとき、親鳥は、ひなを守るために、わざと傷ついた飛び方をして鷲を自分の方に近づけ、ひなから鷲を遠ざけるそうです。勿論、自分の身を危険にさらすわけですが、親鳥はそのようにしてひなを守ります。それは、親鳥がひなを愛し、守ろうとする感情があるからです。人間も同じように、自分の子のために命を犠牲にする感情を持っています。それゆえ、子は親に守られ、成長することができるのです。しかし、そのことは、子供の時は気が付かないものです、大人になって子を育てる中で、初めて人は親の気持ち、子育ての大変さを知るのです。

アガペーの愛は、神様だけが持つ特別な愛です。ユダヤ人たちは、神様の偉大さ、正しさ、義なる方という、神様の性質は理解することはできましたが、神様の愛については理解することはできませんでした。イエス様は私たち罪人を救うために人として生まれて下さいました。しかし、ユダヤ人たちは、神が人として生まれるという事実を理解することができませんでした。それで、イエス様が十字架の上で、ご自分のことを神の子と認めた時、神を冒涜したとして、イエス・キリストに死刑の判決を下したのです。

キリストの十字架の死と復活は私たちにどのような関係があるのでしょうか。もし、イエス・キリストの十字架の死が、惨めな死で終わるならば、私たちと何の関係もありません。しかし、キリストの死が私たちの身代わりの死であるなら、私たちはこのことについて、真剣に考えなければなりません。なぜなら、キリストの死は、神の子の身代わりの死だからです。神様は私たちを救うためにこのような大きな犠牲を払って下さいました。そこに、神様の愛が示されていると聖書は、私たちに教えています。私たちは、その神様の愛にどのように応えるべきでしょうか。

今日は、母の日です、母への感謝の気持を、自分にできる形で、母に示しましょう。