「神の愛(1)人となられた神」ピリピ2章6節~8節
2月14日にはバレンタインデーを迎えます。バレンタインデーは、女性が男性に愛を告白する日と思われていますが、元々は、お世話になっている方に感謝の気持ち表す日です。今日と来週の二回を通して、神様の愛がどのように私たちの愛とは違うのかを学びます。
1.神の子が肉体を持って人となられた。
私たち日本人は、多神教の世界で生きているので、人や動物を神として崇めることに抵抗がありません。しかし、一神教の国(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)の国々においては、神は創造主であり、偉大な存在ですから、人が神として礼拝されることや、神が人となることを受け入れることができません。しかし、キリスト教においては、神の子イエス様が、人と同じ肉体を持って生まれたこと(受肉)を信じることは大切な教えです。
AD150年ごろになると、キリスト教も安定期に入り、その時期にはたくさんの異端(キリスト教の中で間違った教えを信じている人々)が生まれました。その最大のグループに、グノーシス派というグループがあります。彼らは、ギリシャ哲学の影響を受け、二元論(善と悪など、すべてを二元的に考える)の考えをキリスト教に持ち込み、神が人として生まれたことを否定しました。グノーシス派は霊的なことを善と考え、この世の物を悪と考えました。それゆえ、善なる神が悪なる肉体を持って生まれるわけがないと考えたのです。それで、彼らのキリスト教は、イエスが洗礼を受けた時、神がイエスに宿り、イエスが十字架に付けられる前に、神はイエスから離れ天に昇られたと考えたのです。これをドケチズム(仮現論)と呼びます。これにより、グノーシス派は、イエス様が人として肉体を持って生まれたことを否定したのです。彼らは、神が人として生まれ、人に捕らわれ、十字架に付けられて殺されたことを受け入れるとができなかったのです。キリスト教からこの受肉を取り除いてしまえば、キリスト教がキリスト教で無くなってしまいます。罪の無い神の子が、人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして死なれることによって、はじめて私たちの救いは完成されるからです。
2.ユダヤ教とキリスト教
ユダヤ人も神が肉体を持って人として生まれることを受け入れることができませんでした。ユダヤ人にとっても神は偉大な存在です。その神が罪人である私たちと同じ肉体を持って生まれる。また、私たちのような汚れた世界に生まれてくださるとは、とうてい考えられないことでした。マタイの福音書26章のイエス様の裁判の席で、大祭司はイエス様に問いかけました。63節「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」彼は、イエス様が神の子かどうか知りたくて、イエス様にこのように問いかけたのではありません。イエス・キリストに死刑の判決を下すためにこのように問いかけたのです。ユダヤ社会においては、神は偉大なお方ですから、人が自分を神と主張することは神を冒瀆したことになり、死刑になることはだれでも知っていることでした。しかし、イエス様は大祭司に対してこのように言われたのです。64節「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」イエス様はご自分が神の子であられるので、そのまま真実を告げましたが、大祭司はその言葉信じることができず、神を汚した罪でイエス様に死刑の判決を下したのです。ピリピ人への手紙2章6節から8節「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」これはキリスト教の中心です。キリストがユダヤ人が信じているように、私たちと同じ人間なら、彼は自ら死刑を願い出た愚か者です。イエス様もご自分を神の子と発言したら死刑になることは知っていたはずです。しかし、それでもイエス様がご自分のことを神の子と発言されました。それは、ご自分が神の子であり、人の罪の身代わりとして死ななければ、人の救いが完成されない、そのことを知っていたからです。それゆえ、イエス様は自ら、ご自分のことを神の子と発言されたのです。それ以外にどんな理由があって、死刑になることを知りつつ、ご自分を神の子と発言する意味があるでしょうか。6節「キリストは神の御姿である方なのに、神のありかたを捨てられないとは考えず」8節「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」これがイエス・キリストです。
ある先生が、神の子であるイエス様が、私たちと同じ肉体を持ち、人々と共に生活されたことは、私たちが豚となり、豚と同じように生活すること以上に辛い事だったでしょうと話されました。私たちは豚となり、共に豚として生きることを喜んで引き受けるでしょうか。イエス様はそれ以上にはずかしめを覚悟して、人として生まれ33年間も地上で生活され、十字架に付けられ殺されたのです。ローマ人への手紙5章6節~8節「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」パウロは、キリストの死こそ神様の愛の表れだと教えました。確かに世界中にはたくさんの宗教があり神々が存在しています。しかし、イエス・キリストのように人となって私たちの世界に生まれ、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死なれた神は、イエス・キリストだけです。私たちクリスチャンは、イエス・キリストが神の子であることを信じ、その神の子イエス様が人として生まれ、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死なれ、三日目に復活し、天に昇り今も生きておられることを信じる者の集まりです。人間が努力して罪の問題を解決することができるなら、また、どんな神々でも信じれば天国に入れるなら、神はご自分の子イエス様を人としてこの地上に誕生させなかったでしょう。また、イエス様も十字架で死ぬことはなかったでしょう。人間の考えでは、神の子が人の子として生まれ、苦しみを受け十字架で殺されるなど信じられないことです。しかし、神様の愛は私たちの知恵では理解することができないほど大きな愛です。私たちは自分の知恵の限界を知り、神様の愛の大きさを認める時、初めて、神様が計画し、実行してくださった救いを自分の物とすることができるのです。