出エジプト記20章1節~17節
出エジプト記を通して、過越しの祭りの起源について学びました。次にイスラエルの民が紅海を歩いて渡る場面から学びました。先週は、荒野において神がマナという食べ物を与え飲み水をあたえ、40年の間イスラエルの民を養われたことについて学びました。
今日は、十戒の意味について学びます。
一、3節「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」
二、4節「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」
三、7節「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」
四、8節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」
一から四の戒めが、神と人間との関係で人間が守るべき戒めです。
五、12節「あなたの父と母を敬え。」
六、13節「殺してはならない。」
七、14節「姦淫してはならない。」
八、15節「盗んではならない。」
九、16節「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」
十、17節「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」
五から十までが、人と人との間の戒めで、人間が守るべき戒めです。この十の戒めを見てこの十の戒めを守ることは簡単な事でしょうか。それとも難しいことでしょうか。
マタイの福音書19章で、一人の青年が永遠のいのちを求めて、イエスの前に来て言いました。16節「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」ここで青年が求めた「永遠のいのち」とは、天の御国に入ることを意味しています。イエスは彼に言われました。17節「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」青年はどの戒めですかと尋ねました。すると、イエスは十戒の後半、18節「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」と言われました。20節「この青年はイエスに言った。『私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」青年は自信を持ってこどもの頃から十の戒めを守ってきたと言いました。確かに、表面的に、または、形式的に十の戒めを守ることは、人間が努力すればできます。しかし、それは人から見た守り方で、神の御心にかなった守り方なのでしょうか。
マタイの福音書5章21節から、イエスは十戒に対してご自分の意見を述べています。21節22節「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は、火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」イエスの解釈は、人を殺さなくても、兄弟に対して怒る者、兄弟に「ばか者」と言う者は、「殺してはならない」という神の戒めを破ることになるという考えです。また、姦淫については、27節28節「姦淫してはならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」確かに、姦淫を犯すことが無いように努めることはできます。しかし、心の情欲を抑えることは難しいことです。人は他人の心の中を知ることは出来ません。しかし、神は私たちの心の中すべてをご存知の方です。だれが神の前で、罪を犯したことが無いと言えるでしょうか。
では、なぜ神は私たちが守れないような戒めを与えられたのでしょうか。それは、私たちが、何が罪であるかを知るためです。神の正しい基準がなければ、何が正しい事なのか何が罪なのか知ることは出来ません。ところが、ユダヤ人たちは、この戒めを人間が守れる戒めへと引き下げ、彼らは、形だけ、表面だけ守るために、いくつもの戒めを付け加えてしまいました。イエスの教えは、新しい教えというよりは、神の戒め(御心)が何であるかを教えるための説教でした。律法学者パリサイ人たちは、自分たちが作った戒めを一生懸命守ることによって、自分を正しい者とし、自分の聖さを誇っていたのです。しかし、イエス・キリストは彼らの偽善を激しく攻撃しました。それゆえ、律法学者や祭司、民の長老たちはイエスを捕らえ、殺してイエスの教えを葬ろうとしたのです。
自分が罪人であることを認めることは、苦しいことであり、恥ずかしいことです。しかし、神は私たちの罪を指摘し裁くことを願っておられる方ではありません。神は私たちを愛し、私たちのために救いの道を備えてくださいました。それが、イエス・キリストの十字架による救いです。もし、私たちが律法学者たちのように、戒めを表面的(形式的)に守ることによって、罪が無い者として、神の前に立てるのだったら、神はひとり子イエスをこの地上に送ることはなかったでしょう。また、イエス・キリストが十字架で死ぬ必要もありませんでした。しかし、神はひとり子イエス・キリストを一人の人間として、私たちの世界に送ってくださいました。また、イエス・キリストは歴史的事実として十字架で殺され、弟子たちが証言するように、三日目に死より、よみがえって天に昇って行かれました。神はなぜ、それほど大きな犠牲を払われたのでしょうか。イエス・キリストはなぜ、助かることも出来たのに、自ら無実の罪で十字架にかかり死なれたのでしょうか。答えは、一つしかありません。それは、私たちの罪の問題を解決するためには、罪の無い神の子のいのちの犠牲が必要だったからです。神が愛でなければ、ひとり子を犠牲にすることはなかったでしょう。イエスが全世界を支配しようとするなら、簡単に支配できたでしょう。しかし、イエス・キリストは、全ての力、権威を捨てて、一番みじめな姿での死を選んでくださいました。それこそが、私たち罪人に対する神の愛の現われです。自分自身を素直に見つめ、自分の罪を認めて、神が与えて下さる救いの恵みをただでいただきましょう。