マルコの福音書7章1節~23節
アブラハムは祭壇を築き神を礼拝しました。その後、モーセによって幕屋が造られ、イスラエルの民は、荒野において、幕屋を通して神を礼拝しました。また、カナンの地を征服後も、彼らは長らく、幕屋を通して神を礼拝しました。その後、ソロモンによって、神殿が建設され、人々は神殿を通して神を礼拝しました。その後BC585年、南ユダ王国がバビロニアよって滅ぼされ、神殿も壊され、役に立つ多くのユダヤ人たちが奴隷として、バビロニアに連れて行かれました。そこで、ユダヤ人たちは、神殿礼拝が出来なくなったため、会堂に集まり、神様のことば(旧約聖書)を中心とした礼拝へと変わって行きました。また、捕囚から七十年後、国の再建が許され、多くの者が帰国し、国を立て直し、神殿も立て直しました。しかし、彼らは、神殿礼拝と共に会堂での礼拝を重視し、ユダヤ人たちは会堂を中心に生活するようになりました。そこで、生まれたのが、神の戒めを教える律法学者たちです。また、彼らは、神の戒めを守るためにさらに、自分たちが考えた戒めを増し加えました。それが、先祖からの言い伝え、または、口伝律法と呼ばれるものです。旧約聖書最後の預言者はマラキです。それから後、新約聖書まで、約四百年の時間が過ぎました。この時代を中間時代と呼び、多くの律法の学者が生まれ、彼らによって多くの戒めが増し加えられていきました。イエスの時代、律法学者たちは、神の戒めと口伝律法の両方を守るようにユダヤ人に教えました。それゆえ、イエスの時代、ユダヤ人たちは、神の戒めと口伝律法を守るために膨大な戒めに縛られ、苦しめられていました。そのような状況を考えて今日の聖書の箇所を読むなら、さらに深くこの個所の問題を理解することができます。
1、宗教的な汚れ(1節~8節)
律法学者パリサイ人たちが、イエスの弟子たちが洗わない手でパンを食べているのを見て彼らを咎めました。ここでマルコは「汚れた手で」ということばを「洗ってない手で」と説明しています。また3節4節「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器、寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることがたくさんあったのである。」とあります。ここで言われている「汚れた手」とは、「バイ菌などでよごれた手」のことではありません。ユダヤ人は先祖の戒めを守るために、手を洗うことを義務付けられていました。元々は、祭司が神に生贄をささげるときに、身を清めたことが、次第に一般の人々も守るべき戒めとして教えられたそうです。それゆえ、彼らは、手が汚れていなくても、宗教儀式として手を洗うことを義務付けられていました。弟子たちはそれを守らずに、手を洗わないで食事をしたことを律法学者パリサイたちは、先祖の言い伝えを守っていないと咎めたのです。5節「パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。『なぜ、あなたがたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンをたべるのですか。』」イエスは、守るべきは神の戒めであり、先祖の伝承ではないことを理解していました。イエスはそのことをイザヤ書のことばを引用して説明しています。6節イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えているからである。』」また、イエスは言われました8節「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」イエスは手を洗って食べることを否定しているわけではありません。律法学者パリサイ人たちが、先祖の伝承を神の戒めのように守るように定めたことの間違いを指摘しているのです。
2、コルバン(ささげもの)について(9節~13節)
9節からのことばは、イエスが律法学者パリサイ人たちの間違いを指摘した箇所です。イエスはここで「コルバン(ささげもの)」についての間違いを指摘しています。9節「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」
と言い、具体的には10節「モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言っています」これは旧約聖書の有名な神の戒めです。11節12節「それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。」コルバンは一見、神をだいじにしているように見えますが、神の御心は、「父と母を敬う」ことです。神は、父や母を大切にすることを教えています。それなのに、それをしないで、(父や母をないがしろにして)神にささげ物をしても神は喜ばれません。また、イエスは言われました。13節「このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」と言われました。彼らは、神の戒めよりも、先祖の伝承を守るように教えたのです。それと同じように、安息日や断食、お祈りなども、間違った理解をしていました。イエスの教えは、神の戒めを守ることであり、先祖の言い伝えを守ることではなかったのです。
3、食べ物の戒めについて(14節~23節)
ユダヤ人たちは、神の戒めを守り、食べてよい動物と食べてはいけない動物を厳格に分けて食事をしています。そのことは、神がモーセを通して汚れを受けないようにイスラエルの民を戒めたからです。しかし、イエスは、汚れの問題(人を汚すの)は、食べ物ではなく、人から出てくる悪い考えで、21節「淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」であると言われました。確かに、モーセによって汚れると定められた動物を食べても、害を受けることはありません。それは、イエスが言われたように、「腹に入り排泄される」だけです。それゆえ、イエスは、食べ物によって人が汚されることはないと断言し、人の心から出る悪い考えを警戒しなさいと言われたのです。
4、まとめ
イエスがここで問題としているのは、律法学者パリサイ人たちが神の戒めより、先祖の伝承を守るように教えていることでした。先祖の伝承は神の戒めを守るために定められたものです。しかし、その中心である神の戒めが抜けて、先祖の伝承がどんどん増え続け、神の戒めをないがしろにしてしまう事態を招いてしまったのです。イエスの説教はそれを正す説教でした。しかし、律法学者パリサイ人たちは、イエスの教えに耳を傾けず、イエスが神の戒めを守っていないと罪に定め、自分たちの教えを守るために、イエスを十字架に付けて殺してしまったのです。
私たち日本人には、律法学者パリサイ人たちが教える、先祖の伝承はありません。しかし、この世の常識に縛られて、神の戒めよりもこの世の常識を信じて、それを優先してしまうようなことはないでしょうか。たとえば、イエスの処女降誕と死からの復活はこの世の常識では理解できません。しかし、だからと言って聖書の教えから、処女降誕と復活を取り除いてしまったなら、キリスト教ではなくなってしまいます。聖書は、明確にイエスは処女マリヤから生まれ、十字架に付けられ殺され、三日目に復活され、天に昇って行かれたと記しています。神が私たちに求めることは、私たちがイエスの処女降誕とイエスの復活を理解することではなく信じることです。処女降誕とイエスの復活は、イエス・キリストが神であることの証拠です。神の子である、イエスの死によって私たちの救いは完成されました。聖書の奇跡をこの世の常識で理解しようとするなら、聖書のことばを信じることはできず、神のことも信じることはできません。聖書は神のことばで、神の権威に守られた書です。私たち人間は神によって造られたものです。その人間が自分の知恵で神を理解しようとしても不可能なことです。私たちは謙遜に聖書が神のことばであることを信じ、行うことによって神の豊かな祝福を受けることが出来るのです。