「神は我らの避け所、また力」詩篇46篇1節~3節
今の日本において、本当に人は、神様を必要としているでしょうか。食べ物に満足し、住まいも安定し、着る物にも困らない。神様を信じていなくても十分に満足して生活はできます。神を信じるということは、神を自分の主人とし、自分を神のしもべとすることです。多くの人々は、神様に仕えることを喜びとはしません。自分中心の生活が身についているからです。しかし、別の見方をすれば、神を信じるとは、詩篇46篇の著者のように、神を自分の避け所とすることでもあります。神様がアダムとエバを創造された時、アダムとエバにとって、まさに神様は心休まる避け所でした。しかし、そこに蛇(サタン)が登場し、神の支配から抜け出し、自由な生き方、神とは関係ない生き方、それは、自分自身を神として生きる生き方へと誘惑したのです。アダムとエバは神様の約束を破り、善悪の知識の実を食べてしまいました。それは、神様と決別することであり、唯一の避け所を失う結果となってしまったのです。
旧約聖書にルツ記があります。ルツ記はモアブの女性ルツの名前から付けられた表題です。しかし、ルツ記に登場するルツの義理の母ナオミの信仰無くしてこのお話は成立しません。ナオミとはどのような女性でしょうか。ナオミはエリメレクという男性と結婚しました。そして、マフロンとキルヨンという二人の子供を産みました。その後、ユダヤの国の飢饉が激しくなり、ナオミの家族は、食べ物を求め、隣の国モアブへと移住しました。しかし、ナオミはそのモアブの地で夫エリメレクを失ってしまいました。それゆえ、彼女は一人で二人の息子を育てました。それから二人の息子は成長しモアブの女性と結婚しました。ナオミの苦労も報われ、ナオミの家庭に幸せな日々が訪れました。しかし、この幸せも長く続きませんでした。ナオミはまた、二人の息子をも失ってしまったのです。夫と二人の息子を失ったナオミはどれほど大きな悲しみに包まれたことでしょう。ナオミはこの悲しみの中、神様がイスラエルの国をもう一度、祝福してくださっているのを知りました。ナオミはその知らせを聞いて、故郷のベツレヘムに帰ることを決心したのです。そこで、ナオミは二人の嫁のこれからの将来のことを考え、彼女たちをモアブの地に残して、一人でベツレヘムに帰る決心をしました。しかし、嫁の一人ルツは、自分についてベツレヘムで共に暮らしたいと申し出たのです。ベツレヘムに帰っても、生活する基盤の無いナオミは、ベツレヘムでの苦しい生活を考え、ルツにモアブに残って再婚し幸せになる道を勧めますが、ルツは、ナオミと共にベツレヘムで暮らすことを強く希望しました。ついに、ナオミも断ることができずに、二人はベツレヘムへと向かったのです。ルツはどうしてナオミについて、ベツレヘムに行くことを強く希望したのでしょうか。それは、ルツがナオミの信仰を見ていたからではないでしょうか。そして、ルツはナオミの神を信じる姿を見て、自分もナオミの信じる神を自分の神として生きることを決心したのです。神様を頼ってベツレヘムに帰って来たナオミとルツを神様は見捨てるようなことはなさいませんでした。神様はベツレヘムにルツの夫となるボアズを用意しておられました。ボアズは、モアブの女性ではあるが、姑とともにベツレヘムで暮らすことを決心したルツの信仰に引かれました。二人は結婚し幸いな家庭を築きました。そして、その家系からダビデ王が誕生したのです。まさに、ナオミとルツはベツレヘムに帰ることによって、自分たちの避け所を得たのです。
エステル記も女性を主人公とした聖書の個所です。主人公のエステルは、両親を亡くし、叔父さんのモルデカイに娘として育てられていました。当時のイスラエルの民族は、国を失い、貧しい境遇でした。エステルたちの生活も決して豊かな生活ではなかったでしょう。そんな時代にペルシャの国において新しく王妃を選ぶことになりました。国中から美しい女性が城に集められましたが、エステルもその中にいました。そして、最終審査でエステルが王妃に選ばれたのです。貧しい娘が突然、王妃に選ばれたのです。ここまでのお話ならばエステルの素晴らしい成功のお話で終わりますが、聖書はそこで終わりませんでした。次に、ハマンという大臣が王様の信頼を得て高い地位に着きました。誰もがハマンを恐れ彼の前に跪きましたが、モルデカイだけは、ハマンの前に跪きませんでした。それを見たハマンはモルデカイだけではなく、彼の民族、ユダヤ民族を滅ぼすことを決心したのです。ハマンは王様に取り入り、ユダヤ民族を滅ぼす許可を取り付けました。それを知ったモルデカイは急ぎ、このことをエステルに伝え、王妃という立場を利用して、王にこのことを取り消すように働いてくれるように頼んだのです。しかし、王妃といえども、無断で王に近づくことは許されません。場合によっては殺される危険さえありました。ここで、エステルには二つの選択がありました。一つは、自分の身を隠して、知らぬふりをすること。もう一つはユダヤ民族を救うためにいのちをかけることでした。エステルは、後者を選び、いのちをかけて、王へ嘆願したのです。そしてそれが受け入れられ、ユダヤ民族は救われました。また、ハマンの悪事が明らかにされ、彼は処刑されてしまいました。もし、エステルが神様を信じていなければ、危険を恐れ、ユダヤ人を助けることなどできなかったでしょう。エステルはこの時のために神様が自分をペルシャの王妃に選ばれたことを信じました。それゆえ、エステルは信仰を持って王の前に立つことができたのです。
私たちの人生にも予期せぬ出来事が起こります。愛する家族を失ったり、仕事を失うことさえあるかもしれません。また、私たちは、老いるということと死から逃れることはできません。私たちの近くにいつも死があります。そのような状況に立たされた時、私たちはどのような思いを持つでしょうか。困った時の神頼みで、誰しも、自分の力を越えた神様に頼りたいと思う者です。しかし、では私たちはその時に頼る神様をどれだけ知っているでしょうか。私たちクリスチャンは、先ほどの詩篇の著者のように自分の避け所を知っています。
神様は天地の創り主で、今も世界を支配し、私たちを子として愛しておられることを知っています。それゆえ、神の手の中に心の平安を感じます。小さな赤ちゃんが母親の手に抱かれてスヤスヤ寝ている姿に、安心と信頼を感じます。赤ちゃんは自分の母親だから安心してスヤスヤと眠ることができるのです。私たちも同じです。神様が私たちを愛し守ってくれることを信頼しているから、神が避け所となるのです。ナオミは夫を亡くし、二人の息子を無くしても、神のもとに帰ることを忘れませんでした。エステルは同じ民族を救うために、自分を危険な立場においてもユダヤ人を救うために立ち上がりました。そこに、神様への信頼があったからです。私たちはどうでしょうか。私たちの魂の避け所を持っているでしょうか。信仰とは、神を主人とし、自分をしもべとすることです。しかし、その主人は私たちを愛しているがゆえに、自分のひとり子を犠牲とされました。それほど、大きな愛を持って私たちを受け入れてくださるから、私たちは恐れもなく、神の御手、神の避け所で魂を休ませることができるのです。