神様からの愛のプレゼント

「神様からの愛のプレゼント」ヨハネの福音書3章16節

先週の月曜日、放課後タイムでは、バレンタインスペシャルと題して簡単なお菓子作りをしました。(13日の月曜日も予定しています。)火を使わない簡単なお菓子作りということで、渡辺姉に考えていただきました。串おかしというもので、トッポというお菓子に、プチシュウとマシュマロをさして、デコレーションしたお菓子です。8人の子供たちが喜んで串お菓子を作りました。子供たちに誰にプレゼントするのかを聞いてみたら、おばあちゃんにとか、お母さんにとか、妹にとか、自分で全部食べるという子もいました。日本のバレンタインは、女性が好きな男性に愛を告白する日となっています。しかし、本来の意味は、日ごろお世話になっている人に、感謝の気持ちを表しプレゼントをする日です。プレゼントもチョコレートに限ったものではありませんでした。チョコレートは日本のお菓子メーカーが自社の製品を売るために宣伝をしたことが広まったようです。一昔前には義理チョコというものが流行りました。愛の告白ではなく、日ごろお世話になっている会社の同僚や上司にプレゼントするチョコレートです。値段はそんなに高い物ではありません。そして、本命には手作りのお菓子や高級なチョコレートを渡していました。

先ほど読んでいただきました。ヨハネの福音書3章16節の聖書のことばは、聖書全体の中でも一番有名で重要なことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ある先生がこの個所から説教された時、「世を愛された」という個所に自分の名前を入れて読むならもっとわかりやすくなりますと説明してくださいました。確かに「世」ということばは、あまりに広く漠然としたことばです。しかし、そこに自分の名前を入れるなら、他人事ではなく、神様が自分を個人的に愛し、ひとり子イエス様を犠牲としてくださったと考えるなら大きな出来事です。簡単に見過ごすことのできない出来事となります。

また、「そのひとり子をお与えになった。」という意味には二つの出来事が含まれています。

  • ご自分の子(イエス様を)人としてこの世に誕生させられた。
  • イエス様を人々の罪の身代わりとして十字架の上でいのちを取られた。

ということです。いくら人を救うためとはいえ、自分の愛する子を罪人の中に生まれさせるとは、神様の目から見れば、汚物の中に自分の子を浸すようなものです。どの親が自分のかわいい子を汚物の中に入れることを平気で行うことができるでしょうか。神様はひとり子をこの地上に遣わされるときに、大きな悲しみに耐えられたのです。また、自分の子を王様の子やお金持ちの家ではなく、大工の家、しかも、生まれた場所は家畜小屋でした。そのような貧しい家、貧しい姿でこの地上に誕生させられたのです。もし、イエス様が王様の子、祭司の子として生まれたならば、もっと多くのユダヤ人たちがイエス様のことを神の子として受け入れたでしょう。しかし、それは信仰によるのではなく、この世の権威(王様、祭司)によって受け入れただけで、神様の計画ではありません。神様の救いの計画は、イエス様が普通の人として生まれ、罪人として十字架の上で殺されることでした。

また、イエス様もそのことはご存知でした。イエス様の力からすれば、自分が王になること、世界を支配することもできました。もちろん、十字架の死さえも避けることができたのです。しかし、そうなれば、神様の計画は失敗し、私たちの救いもなくなってしまったでしょう。イエス様は十字架に付けられ殺される前に、弟子たちにこのように言われました。ヨハネの福音書15章13節「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、聖書の中で愛というギリシャ語は三種類使われています。(1)エロス(男女の愛)。(2)フィレオー(家族、友人に対する愛)。(3)アガペーです。アガペーは神様の愛を表す言葉で、具体的には見返りを求めない、一方的に与える愛だと言われています。イエス様は先ほどのことばのように、ご自分のいのちを十字架で私たちのために捨ててくださったのです。

以前、テレビのアニメ番組サザエさんを見ていたら、サザエさんの夫マスオさんが、夢の中で、サザエさんと共にライオンに追っかけられる夢を見ました。そして、その時、丸太の橋を自分が渡った後、思わずその丸太の橋を外してしまいました。その後、目が覚めたマスオさんは、ばつが悪くなって、サザエさんに機嫌をって、肩を揉もうかとか、今日、おいしい物を買ってくるよと言い、それを聞いたサザエさんが、今日、あなたどうかしたという場面でした。マスオさんが特別弱い者というわけではなく、誰にでもある弱さを表したお話です。誰でも、実際にそのような場面に出くわしたら、夢の中のマスオさんのように、丸太の橋を外してしまうかもしれません。人間は自己中心で自分だけ助かれば、良ければという思いを持っています。もちろん、自分の愛するこどもや家族を救うために、自分のいのちを犠牲にする人はいるでしょう。しかし、罪人のため、悪い者のために自分のいのちを犠牲にする人はいません。しかし、イエス・キリストは罪の無い、神のひとり子でした。その神のひとり子が人として生まれ、無実の罪で、罪人である私たちを救うために、十字架の上でいのちを捨てて下さったのです。神はイエス様を通してご自身の愛を示してくださいました。また、イエス様はご自分のいのちを犠牲にして、ご自身の愛を私たちに示してくださいました。それゆえ、私たちはその神様からのメッセージを無視したり、知らん顔することは許されないし、また、それほど大きな犠牲を払って、私たちに与えてくださった「永遠のいのち」「罪からの救い」を無駄にしてはいけないのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし、敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのはなおさらのことです。そればかりではなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5章8節~11節)