神様の愛とキリストの愛

「神様の愛とキリストの愛」ヨハネの手紙第一4章7節~10節

日本のバレンタインは、女の子が好きな男の子にチョコレートをプレゼントして、自分の気持ちを、好きな男の子に伝える日となっています。本来のバレンタインは、普段お世話になっている人に、感謝の気持ちを伝える日です。私の中学校の頃は、学校内でプレゼントをすることが問題となり、学校にプレゼントを持ってくることは禁じられていました。それでも、学校の帰り道に男の子を待ち伏せして、プレゼントをあげたとか、プレゼントをもらったという話を聞いてうらやましく思ったものです。

人を愛することと、人に愛されることどちらが幸せでしょうか。私は愛されるほうを望みます。しかし、人によっては愛するほうが幸せだと感じる人もいます。では、プレゼントをする人と、プレゼントをもらう人とどちらが幸せでしょうか。私はプレゼントをするほうが好きです。プレゼントをして相手が喜ぶ顔を見るのが一番好きです。

ヨハネの手紙第一4章8節に「神は愛です」とあります。それは、神様の性質を表したことばです。9節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちにしめされたのです。」とあります。この方とは、イエス・キリストを指しています。ご自分のひとり子であるイエス様を人としてこの地上に送られた。そこに、神様ご自身の愛が表されていると使徒ヨハネは私たちに教えているのです。また、その目的は、私たちにいのち(永遠のいのち)を与えるためだと記されています。永遠のいのちとは、この地上で永遠に生きることではありません。神と共に生きることを表し、それは、また、天国で永遠に生きることを意味しています。

神が人間の罪を赦すために、ご自分のひとり子を犠牲にされたということは、人間の知恵では理解できないことです。特に、神様を天地の創り主とあがめるユダヤ人には絶対に受け入れられないできごとです。それゆえ、イエス様が神様をご自分の父と呼ぶこと、また、自分を神と等しい者とすることを律法学者パリサイ人たちは許すことができませんでした。それゆえ、イエス・キリストを捕らえ十字架に付けて殺してしまったのです。しかし、神は私たち人間が自分の罪のゆえに罰せられ、苦しむ姿を見ることに耐えられませんでした。しかし、私たちを救うためには、誰かが、人の身代わりに死ななければなりませんでした。それも、罪を犯したことのない人間がです(神は死ぬことができません)。しかし、罪を犯したことのない人間は誰もいません。そこで、神の子であるイエス様が人として生まれ、身代わりに死ぬことが必要だったのです。愛するわが子を、罪人を救うために人としてこの世に遣わせるとは、父親としてどんなにつらい決断だったでしょう。ローマ人への手紙5章8節「しかし私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」王になるため、また、人々に尊敬されるために地上に息子を遣わせるならまだしも、人々にさげすまれ、十字架に付けられて殺されるために、自分の愛する息子を地上に送ることができるでしょうか。人間にはできないことです。それゆえ、ユダヤ人も他の民族も自分たちの考えでは理解することができなかったのです。

イエス様はどのような思いで地上に来られたのでしょうか。イエス様の地上での生涯は33年でした。しかも一度も罪を犯すことがありませんでした。イエス様を裏切り祭司長、民の長老たちに罪人として売り渡したのは、イスカリオテ・ユダでした。しかし、彼はイエス様を殺すために裏切ったわけではありません。まさか、イエス様が死刑の判決が下るとは思ってもいなかったのです。それゆえ、後で、イエス様に死刑の判決が下ったことを知ったイスカリオテ・ユダは自分の裏切りの罪の重さに耐えかねて、自ら自殺してしまいました。

また、イエス様を死刑にしようとした、祭司長、民の長老たちは、イエス様を死刑にするために偽証する人まで準備していたのです。しかし、それでも、死刑を下す証拠とはなりませんでした。それゆえ、大祭司はイエス様に、神の子かどうかを問いただしたのです。ここで、イエス様がご自分の事を預言者であると言えば、大祭司でもイエス様を死刑にすることはできませんでした。イエス様は、自分を神の子であると認めることが死刑に値することを知った上で、その通りであると、ご自身を神の子と認められたのです。大祭司は喜んだことでしょう。自分の仕掛けた罠に、自らイエス様が引っ掛かったからです。大祭司は、イエス様のこの言葉により、神を冒?した罪で死刑の判決を下したのです。

イエス様が捕らえられる前に、ゲッセマネの園で汗が血のように流れるほど父なる神に祈った場面は有名です。イエス様は父なる神にこの杯(十字架の死)を取り除いてくださいと祈りましたが、最後には、御心がなりますようにと祈りました。それほど、十字架に付けられて殺されることがイエス様には耐えられない苦しみであったのです。十字架に釘付けにされる肉体的苦痛も苦しみですが、無実の者が罪人として、人々にさげすまされて殺されるという精神的な苦痛も心に耐えがたい苦痛です。また、愛する弟子たちが自分を裏切って逃げて、一人残されるという苦しみも負わなければなりませんでした。愛する者に裏切られる、捨てられる苦しみはどれほど大きなくるしみでしょう。しかし、イエス様は私たちが考えるすべての苦しみを負って死んでくださったのです。

愛にも色々な愛があります。口先だけの愛。見せかけの愛。イエス様は本当の愛は友のために自分のいのちを捨てることだと言われました。まさに、イエス様は罪人である私たちのために死ぬという本当の愛を示してくださったのです。また、神様の愛は、見返りを求めない一方的に与える愛だと教えています。神様は私たちを救うためにご自分のひとり子を犠牲にされるという愛を示してくださいました。また、イエス様は一度も罪を犯さなかったのに、私たちの身代わりとなるために十字架の上で死んでくださいました。そして、私たちの救いを完成されました。この救いはすべての人に与えられる神様の恵みです。正しい人や努力した人にではありません。こどもでも老人でも障害を持った人でも、お金持ちでも貧しい人でも、罪を犯し刑罰を受けた人でも誰にでも備えられたものです。イエス・キリストは罪人を救うために人として生まれ、十字架で死んでくださったお方だからです。バレンタインの日、人に感謝すると共に、神様にも感謝する日としたいものです。