「神様の愛とキリストの愛による救い」ピリピ2:6~11(イースター礼拝)
マタイの福音書19章16節から、一人の青年がイエス様のところに来て、質問しました。16節「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」ここで青年が質問した「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に生き続けるいのちのことではありません。どうすれば神の国(天国に)入ることができますかと尋ねたのです。当時のユダヤ教の指導者たちの間でも、どうすれば天の御国に入ることができるのか、真剣に議論がなされていました。彼らは、神のことばである、聖書のどの戒めを守れば、神の前に正しい人と認められるのかと議論していたのです。そこで、この青年は、最近、有名になり始めたイエス様の考えを聞くために、イエス様のところへ訪ねて来たのです。イエス様はこの青年に対して、戒めを守りなさいと言われました。ここでイエス様が言われた戒めとは、旧約聖書のことばを指しています。それを聞いて青年はさらに、旧約聖書のどの戒めを守るべきかを尋ねました。イエス様は18節「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。この言葉は、旧約聖書の出エジプト記の中で、神様がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の後半の戒めです。青年はこのことばを聞くと20節「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのしょう。」と答えました。この青年はお金持ちで、子どもの頃から、厳しくユダヤ教について教えられてきたのでしょう。それゆえ、この青年はそんな基本的なことは守っていますと胸を張ってイエス様に答えたのです。この青年は本当に先ほどの戒めを完全に守ることができていたのでしょうか。確かに、外見的には、姦淫したり、人の物を盗むことはなかったでしょう。しかし、イエス様はマタイの福音書5章27節28節で「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。ここで問われているのは、戒めの守り方です。実際に姦淫しなくても、情欲をいだいて女を見る者は姦淫の罪を犯した者と同じであるとイエス様は言われたのです。実際に姦淫の罪を犯す者はそれほどいないでしょう。しかし、情欲をいだいて女を見る者といわれれば、男性ならば誰にでも一度や二度は覚えがあるはずです。また、人の物を盗まなくても、人の持ち物を欲しいと思ったことは誰でもあるはずです。イエス様は、人の物を盗まなくても、人の持ち物を欲しいと思ったら、盗みをした人と同じ罪を犯したとことになると教えられたのです。イエス様が言わんとされたのは、表面的な罪にとどまらないで、心の中の罪にまで踏み込んで、戒めを守っているかを問われたのです。それほど、神様の戒めの基準が高いことをこの青年に伝えようとされたのです。しかし、この青年はそこまで考えないで、そのようなことは守っておりますとイエス様に答えたのです。
そこでイエス様は彼に言われました。21節「もし、あなたが完全になりたいなら、帰ってあなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」しかし、この青年は悲しんでイエス様のもとから去って行ったとあります。なぜなら、彼は多くの財産を持っていたからでした。イエス様は彼に欠けたところがなんであるかすぐにわかりました。それは、神様に頼ろうとしないで、自分の持ち物、財産に頼って生きようとする姿でした。そこで、イエス様は彼の欠けた所を彼に教えるために、「あなたの財産を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。」と言われたのです。この時、彼は自分の本当の姿を教えられ、イエス様のところから去って行ったのです。それから、イエス様は弟子たちに言われました。23節「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入ることはむずかしいことです。」24節「まことにあなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」らくだはイスラエルの国では、一番大きな動物とされていました。そのらくだが、針の穴を通るよりも、お金持ちが神の国に入るほうがもっとむずかしいと言われたのです。その意味は、「財産があればあるほど、人は財産に頼ろうとするので、お金持ちほど天の御国に入るのがむずかしい。」と言われたのです。それを聞いて弟子たちはイエス様に尋ねました。25節「それでは、だれが救われることができるのでしょうか。」当時の常識では、お金持ちほど天の御国に近いと言われていました。彼らは、たくさん神殿に献金し、時間があるため、余裕で神様の戒めを守ることができたからです。しかし、イエス様はその常識と全く反対のことを言われたので弟子たちは大変驚いたのです。そこで、イエス様は弟子たちに言われました。26節「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」イエス様は、天の御国に入ることは、人の努力によって達成するものではなく、神の御業であると言われたのです。
神の業とは何でしょうか。ピリピ人への手紙2章6節~11節(1)神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず。」神の栄光の姿を捨てて、人となられた。(2)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた。神である方が、無実の罪で十字架に付いて死んでくださった。これが神の業です。人間の考えでは、神が自分の栄光の姿を捨てて、人と同じになるなど考えられないことです。また、神が無実でありながら、罪人の身代わりとして、十字架に付いて死ぬなど考えられないことです。しかし、神は人にできないことをされたのです。それゆえ、イエス様は「神にはどんなことでもできる。」と言われたのです。
パウロはローマ人の手紙の中でこのように言われました。5章6節~8節「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」私たちはどのような方法で、処女のマリヤからイエス様が生まれたのか、いまだにその方法はわかりません。また、イエス様が死んで三日目にどのような方法で復活されたのかその方法は知りません。しかし、明らかなことは、私たち罪人は、罪の無い神の子が人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして死んで、復活されなければ、誰一人として、天の御国に入ることができないということです。それゆえ、神はひとり子イエス様を私たちの罪の犠牲とされました。また、イエス様は私たちを救うために、ご自身のいのちを犠牲にされました。それは、すべて、神様の愛であり、神様が私たちひとりひとりを愛しておられるからだと聖書は私たちに教えています。あなたは、この聖書のことばを信じますか。それでも、尚、自分が努力して正しい人になり、神に認められて、天の御国に入ろうとする人でしょうか。