「神様の見えざる御手」マタイの福音書6章31節~34節
私たちは神様の存在は信じていても、神様の計画に従わずに自分の考えや世の常識に頼りやすいものです。それは、見えない神様の力よりも、目に見える物や自分の経験した事のほうが確かに見えるからです。しかし、よく考えてみると、世の常識は時代と共に変化しているし、自分の考えにしても明日のこともわからない不完全な者であることを考えると、神様の計画のほうがより確かであることがわかります。今、私は朝のディボーションの時間に旧約聖書の出エジプト記を毎朝読んでいます。今日は、その中で神様に気付かされたことをお話ししたいと思います。
出エジプト記は創世記の続きの書です。ヤコブの子ヨセフは兄弟たちによって奴隷として売られ、エジプトの地で奴隷として生活するようになりました。しかし、ヨセフはエジプトの地で苦難の生活をおくりますが、神様の特別な計画によってエジプトの総理大臣に任命されたのです。また、世界中に起こった飢饉のためヤコブの家族はヨセフを頼ってエジプトに移住しました。その時の人数が70人でした。それから何百年と経ち、時代は過ぎ去り、ヨセフのことを知らない王がエジプトに就任しました。その頃にはヤコブの子孫はエジプトの国で大きな民族として成長していました。エジプトの王はイスラエルの民が増え広がるのを恐れ、イスラエルの民を奴隷として迫害しました。イスラエルの民はこの迫害のために神様に助けを求めました。そして、イスラエルの民を助けるために生まれたのがモーセです。しかし、モーセが生まれた時、誰が神様の御手がすでに働いていると気づいた人がいたでしょうか。イスラエルの民は依然として苦しみの中にいたのです。
モーセが生まれた時、男の子が生まれたらすぐに殺さなければならないと厳しく命じられていました。しかし、モーセの両親は何とかモーセを助けようと、モーセをかごに入れてナイル川の岸辺に置いたのです。誰かに拾って育ててもらえればと考えたからです。するとそこへ、エジプトの王の娘が水浴びをするためにモーセの入ったかごに近づきました。彼女はかごを拾い上げ、その中に居るモーセを見つけて、自分の養子にするためにモーセを宮殿に連れていったのです。エジプトの王はイスラエル人の男の子を全て殺そうとしましたが、その娘がモーセを助け自分の養子にしたのです。これを偶然と言えるでしょうか。明らかに神様の働きです。後に、モーセは、モーセ五書と言われる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を書きます。モーセは40歳まで、エジプトの宮殿で生活しました。当時、エジプトは世界の中心でした。ここで彼は世界中の情報を得ることができたのです。また、後に、イスラエルの民、男性だけで60万人を連れてエジプトを脱出します。モーセはエジプトの宮殿でリーダーとしての学びも受けることができたのです。また、後にモーセがエジプトに戻り、エジプトの王にイスラエルの民を荒野に行かせるように交渉します。この時の王はモーセが子供の頃、共に育った友人でした。それゆえ、ただの羊飼いであるモーセでもエジプトの王と直接話すことができたのです。この様に、神様はイスラエルの民をエジプトから助け出し、神様の約束の地カナンに導くためにすでに準備をされていました。しかし、イスラエルの民はまだ誰もそのことを知りませんでした。イスラエルの民は依然として苦しみの中にいたのです。
モーセが40歳になった時、モーセはイスラエルの民の苦しみを見て、何とか彼らを助けたいと思いました。ある時、エジプト人がイスラエル人に危害を加えているのを見て、イスラエル人を助けるためにエジプト人を殺してしまいました。また、モーセはそのことがばれるのを恐れ、荒野へと逃げ、そこで隠れるように羊飼いとして40年も暮らしたのです。神様がイスラエルの民をエジプトの苦しみから助けるためにモーセの前に現れたのはモーセが80歳の時でした。モーセがイスラエルの民を荒野で導くためには、この40年の歳月が必要でした。それは、モーセが神様の前に謙遜に成るためでした。また、イスラエルの民を荒野に導くために、モーセは荒野での生活に詳しくなければならなかったのです。そのために40年の歳月が必要だったのです。それから、モーセは神様の命令に従ってイスラエルの民をエジプトから助け出すためにエジプトに向かいました。単純に考えて、イスラエルの民がエジプトでの迫害で苦しみ、神様に助けを求めて80年が過ぎていました。この80年の間、神様はイスラエルの民を助け出すために一つ一つを準備してきました。はたして、イスラエルの民はそのことに気づいていたでしょうか。イスラエルの民の苦しい状況は変わっていません。それゆえ、誰も神様の働きを知りませんでした。神様の救いの準備は人知れず行われていたのです。
そのことを考えると、私たちに対する神様の働きも同じではないでしょうか。今は苦しみの時かも知れません。また、神様が自分に対してどのような計画を持っているかはわかりません。しかし、モーセのことを考えるなら、神様は私たちの人生にも最善の準備をしてくださっているのではないでしょうか。マタイの福音書6章34節に「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分にあります。」とあります。「あすのことはあすが心配します。」とはわかりにくいことばです。イエス様が群衆に教えようとされたのは、あすのことは誰にもわからないのだから、今日一日を一生懸命生きなさいということではないでしょうか。人はあすのこともわからないのに必要以上に心配し思い煩う者です。あすのことを全く忘れることや考えないことはできないことです。しかし、私たちを愛し、私たちに最善の人生を準備して下さる神様に、あすのことを委ねることはできます。私たちの目には見えなくても、神様の御手はすでに働いておられます。そのことを信じて、今日一日を神様に委ねて歩みましょう。