祭司ザカリヤとクリスマスの恵み

「祭司ザカリヤとクリスマスの恵み」ルカの福音書1章5節~20節

今日からアドベントが始まります。アドベントはイエス様の誕生を祝うクリスマスを前に、4週間クリスマスを迎える準備をする時です。もちろんそれは、教会や家の中の飾りつけを意味しますが、クリスマスを迎える私たちの心を整える、大切な4週間でもあるのです。今日は、祭司ザカリヤに訪れた喜びの知らせについて学びます。

イエス様が生まれる時のユダヤの国の状況は、決して幸いな時代ではありませんでした。ローマという大きな国に支配され、ユダヤ人は奴隷の状態だったのです。しかし、ローマ政府は宗教には寛容で、その国で自由に自分たちの神々を礼拝することは許していました。イエス様の誕生の時に礼拝されていた神殿は第三神殿と呼ばれるものです。第一神殿はソロモンによって完成されましたが、紀元前586年にバビロニヤによって壊されてしまいました。その後、捕囚として南ユダの人々はバビロニヤに移住させられましたが、70年後に捕囚が許され、神殿をもう一度、再建することができました。それが第二神殿と呼ばれるものです。しかし、その神殿も紀元前37年にローマとの戦争によって破壊されてしまいました。新しくローマ政府から遣わされたヘロデ王は、ユダヤ人の関心を得るために、50年かけて神殿を再建しました。それが第三神殿またはヘロデの神殿と呼ばれるものです。それゆえ祭司たちの立場は微妙でした。それは、民衆はヘロデ王やローマ政府を恨んでいました。できれば、ヘロデとローマ政府を革命によってユダヤの国から追い出したいと願っていたのです。しかし、そうなればまた、神殿を壊されるかもしれません。祭司たちは何とか、ヘロデ王やローマ政府に取り入り、自分たちの立場を有利にしようと働きかけていたのです。また、ローマ政府は、ユダヤの国にある程度の自由(自治権)を与えていました。自分たちで選んだ議員によって裁判や国の方針を決める自由を与えていたのです。それをサンヘドリン(最高議会)と呼び、71名の議員で構成されていました。また、その71名の議員は律法に忠実なパリサイ派と祭司階級から選ばれたサドカイ派で占められていました。パリサイ派はユダヤ人の支持を得て反ローマの立場でしたが、ローマ政府は自分たちが有利になるようにサドカイ派(祭司階級)を支持しました。それゆえ、祭司たちはローマ政府から特別に優遇され、生活は豊かで豪華な家に住んでいたのです。

ザカリヤはそのような豊かな生活の中で、神様に仕え神殿の奉仕を行っていました。しかし、ザカリヤには大きな悩みがありました。それは、年老いても、自分の家系を継がせる子供がいないということです。7節を見ると「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」とあります。旧約聖書では、アブラハムの妻サラやサムエルの母ハンナなど、不妊の女性がいかに不幸な立場で、社会的にも一人の女性として認められないつらい立場であることを教えています。ザカリヤとエリサベツの夫婦も、見た目には豊かな生活ですが、周りからは、かわいそうな老夫婦とみられていたのではないでしょうか。そのようなザカリヤが神殿の奉仕をしている時、突然、主の使いが現れて、あなたの妻エリサベツは男の子を生むと告げられたのです。ザカリヤはどんなに驚いたことでしょう。しかも、その生まれる男の子は普通の子どもではなく、旧約聖書に預言されている、救い主の前に遣わされるエリヤのような力ある者になると言われたのです。それを聞いたザカリヤの反応は、18節「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と答えました。その意味は、私たちは二人とももう年を取っており、子を得ることなど不可能ですという意味です。ザカリヤは祭司ですから、旧約聖書のお話、アブラハムが100歳、サラが90歳でイサクという子を得たことを知っているはずです。ザカリヤもエリサベツも年を取ったと言っても100歳や90歳よりも若いはずです。それでも、自分のことになるとそう簡単に信じることができないのが、人間の弱さなのです。

私たち人間は、素直に神様のことばを信じることが難しい者です。特に、年を取り人生経験が長ければ長いほど、現実の世界が大きく見えてきます。頭では分かっていても、自分のことになると、現実が大きくなり理解できないことは受け入れることができない者です。イエス・キリストが処女のマリヤから生まれたこと。イエス様が死より三日目に復活して天に昇って行かれたこと。誰が素直に受け入れることができるでしょうか。この世の常識ではありえないことです。男性は特に理解できないことは受け入れることができません。それゆえ、聖書の処女降誕と復活を理解できないがゆえに、神様からの救いという特別なプレゼントを受け取ることが難しく思えます。

信仰とは、神様の存在を信じるということだけではなく、神様を信頼するということです。そして、神様を信頼するということは神様の約束を信頼するということです。それは、人間関係の信頼と同じことが言えます。出来もしないことを約束したり、約束をしても守らない人の言うことは誰も信じません。しかし、約束したことを必ず守る人は、人に信頼される人です。聖書は神様の約束の書と言われますが、神様の約束は、イエス様の再臨以外すべてその通りに守られています。神様は私たちを罪の刑罰から救うために、ひとり子イエス様をこの地上に人として遣わし、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で命を取られたとあります。神がなぜ、罪人の私たちを救うために、自分の子を犠牲にすることがあるだろうかと多くの人々はこの世の常識で考えて理解できません。しかし、神は私たちと同じ人格を持ったお方です。私たちよりも大きな愛を持ったお方です。私たちですら、目の前に倒れている人を見捨てることができないなら、神様が私たちを見捨てることなどありえません。私たちは、自分の罪の状態がどのようなものであるか理解できません。自分にガンの細胞があれば誰でも取り除こうと手術を受けます。しかし、私たちには自分の罪が見えません。しかし、神様の目にすべての人は罪人として映っています。愛ある神様がそれを黙って見ていることはできませんでした。私たちを助ける方法は一つしかありませんでした。罪の無い自分のひとり子を身代わりにすることです。はたして、あなたが神様なら、罪を犯した人を救うために、自分のかわいいひとり子を身代わりにするでしょうか。この世の常識ではありえないことです。しかし、神様の愛は私たちの救いのために、イエス様をこの世の遣わしてくださったのです。この世の常識では、理解できないことです。しかし、聖書を読むなら、神様がいかに人間を愛しておられるかがわかります。神は、この世の常識では理解できないことを行ってくださったのです。ザカリヤは御使いのことばを信じることができませんでした。それゆえ、こどもが生まれるまで、ものが言えず、話せなくなってしまいました。神様は私たちの理解を越えたお方です。それゆえ、神様の御業もその時には、ザカリヤのように理解できないかもしれませんが、後になって、理解する時が備えられています。神は私たちの幸いを一番に考えておられます。クリスマス、それは、神様が私たちを幸せにする幸いなプレゼントなのです。