終活(人生の終わりに備える)

「終活(人生の終わりに備える)」マタイの福音書24章37節~44節

ネパールの地震によって5500人近い人々が亡くなりました。東北の震災から4年が経ち、テレビや新聞でも東北の今の状況を伝えるニュースが少なくなりました。また、阪神で起きた大地震についても語られなくなりました。時間とともに、遺族以外は、地震の恐ろしさを忘れ、地震に備えることにおろそかになっています。私たちは、他国で起きた震災を通して改めて自然の力の大きさを教えられ、また、人間が小さな存在であることを教えられます。

創世記の6章にノアの箱舟のお話しが登場します。この時に行われた大洪水は、人間の罪の大きさに対する神様の裁きでした。しかし、ここにノアが登場し、神様は彼の家族を通して、この地上をやり直そうとされました。しかし、ノアの家族も罪を犯し、この地上から罪はなくなりませんでした。イエス様は群衆に、このノアの出来事を通して世の終について警告しています。警告1、世の終わりは突然に訪れる。警告2、人々は世の終について感心が無く、食べたり飲んだりと宴会騒ぎをしている。警告3、目をさましていなさい。聖書は世の終わりは必ず訪れると警告しています。まだ、世の終わりが来ないのは、神様が一人でも多くの人々が救われるように忍耐強く待っておられるからです。

世の終わりが必ず来ると同じように、私たちの人生の終わりも訪れます。私たちは自分の最後についてどのよな備えをしているでしょうか。自分の死の準備は生きている時にしなければなりません。自分の死の準備をすることを終活と呼びます。母は、亡くなる前に、兄に、葬儀は家族だけで送るように話をしたそうです。父の葬儀の時は、300人近い参列者がありました。また、香典やお花料がたくさん集まり、返礼に半年かかったと兄から聞きました。母はそのことを知っていたので、自分の葬儀の時には兄に迷惑をかけないように、家族だけで葬儀をするように言ったのではないかと思います。また、母は88歳で、友だちも既に亡くなり、親戚も高齢になっていることも家族だけの葬儀にした理由だとおもいます。普段、質素な母にはふさわしい葬儀でした。

終活として、どのような葬儀を希望するのか、仏教式かキリスト教式か。場所は、教会か斎場か。キリスト教で行うなら、愛唱聖句、愛唱歌、好きな花などを家族に伝えておくといいでしょう。財産についてもはっきりしておいたほうがいいでしょう。また、私たちは体だけではなく、魂も持っています。死後、私たちの魂はどうなるのか明確にしておく必要があります。誰しも、死後の不安は持っています。死後、私たちの魂はどこに行くのでしょうか。フワフワとこの地上をさまよい歩くのでしょうか。または、すぐに地獄に落ちて苦しむのでしょうか。聖書は、イエス・キリストを救い主と信じる者の魂はパラダイスに行き、そこで、世の終わりを待ち、信じない者の魂は世の終わりが来るまで暗闇に閉じ込められると教えられています。天国は、最後の審判の後、登場しイエス様によって罪赦された者は、天国で神と共に永遠に暮らし、罪あるものは、自分の罪故に永遠に消えない火で焼かれると記されています。世の終わりとはノアの洪水の時と同じです。あの時も、人の罪が増大した為に神様は洪水で地上の全ての人を滅ぼそうとされたのです。

救いとは、人間が招いた神様の刑罰からの救いです。私たちは罪人として生まれ、罪から離れて生活することはできません。全ての人が罪人ということは、全ての人が西武池袋線に乗って池袋駅を目指して走っているのと同じ事です。しかし、電車は途中で乗り換えることができます。西武池袋線なら、所沢駅で降りて西武新宿線に乗り換えるなら、黙っていても新宿に運ばれるのです。このように、乗り換えることを、聖書では悔い改めると言います。人は自分の罪を認めて悔い改め、自分の力で天国に近づくのではなく、神様の恵みによって天国に入ることができるのです。

終活のために葬儀の準備をし遺言書を書くことは大事な事です。しかし、それ以上に大切なことは私たちの魂の落ち着き先を定めることです。母は、洗礼は受けませんでしたが、姉に連れられて何度も教会に行きました。また、母が亡くなる前に、神様を信じる祈りを姉が導いたと聞きました。母の心臓と肺と肝臓は既にぼろぼろでした。今度、倒れたら責任は負えないと医者に言われていました。当日、母の呼吸が弱くなり、隣の病院に運ばれた時にはすでに呼吸が止まっていたそうです。母の臨終に立ち会うことは出来ませんでしたが、母が苦しむこと無く眠るように亡くなったのを聞いて少し安心しました。

先程の、ネパールの地震、東北の地震、阪神の地震。その他の災害で突然、命を失うこともあります。津波で若い青年も小学生も亡くなりました。死に年齢の順番はありません。突然の災害の時、全く準備がなく亡くなる時があります。しかし、魂の救いのための準備はすぐに出来ます。イエス様は天の父の御もとに行く前に弟子たちに言われました。ヨハネの福音書14章1節~3節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」イエス様は私たちの魂の安らう場所を備えるために父なる神の御もとに昇っていかれました。私たちが望むなら、神は喜んで天の門を開いて私たちを迎えて下さいます。これこそ、まことの終活、死に備えることです。自分の魂の住まいを定めることによって、人は初めて自分の死を受け入れ、安らかに死を迎えることができるのです。