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マルコの福音書15章16節~41節
ユダヤ教の指導者による宗教裁判そして、ローマ総督による死刑の判決まで見て来ました。今日はイエスが実際に受けられた「苦しみと死」について考えます。イエスは死刑の判決を受けた後、むちで打たれました。そして、兵士たちによって辱めを受けました。当時、死刑囚は自分の十字架を負い処刑場まで歩いていかなければなりませんでした。しかし、イエスの体力は限界を超えており、途中で十字架を背負って歩けなくなってしまいました。そこで、近くを通りかかった、クレネ人シモンに無理やりイエスの十字架を背負わせたとあります。ゴルゴタに着くとイエスは手と足をくぎで十字架に打ち付けられました。その痛みはどれほどの痛みでしょうか。ルカによる福音書では、イエスはこの時「父よ、彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです。」と父なる神に祈ったとあります。無実で捕らえられ、辱めを受け、手と足をくぎ付けにされても、人を恨むことなく、イエスは彼らのために祈りました。ここに人間を超えた神の姿を見ます。
マルコの福音書15章25節を見るとイエスが十字架に付けられたのが午前九時であったとあります。そしてイエスが息を引き取ったのが午後の三時ごろと記されています。イエスは約6時間十字架につけられ苦痛に耐えられました。また、イエスの右と左に同じように十字架に付けられた犯罪人がいました。ルカの福音書23章39節からを見ると、犯罪人の一人はイエスをののしりました。39節「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」するともう一人が彼をたしなめて言いました。40節41節「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことのむくいをうけているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」そして言いました。42節「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に43節「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。そして、十二時から三時ごろまで、闇が全地をおおいました。この時、イエスは大声で叫ばれたとあります。34節「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味であるとあります。そばにいた人たちはイエスがエリヤを呼んでいると理解した者たちがいました。イエスが死を前にしてなぜ、あのように叫ばれたのでしょうか。その意味について、いくつかの解釈がされましたが、有力な解釈として二つがあります。(1)詩篇の22篇を見ていただくと、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」いう言葉から始められています。この詩篇は苦しみの中でも神を信頼しますという詩篇です。イエスはこの詩篇を叫ぼうとして途中で息絶えたという解釈です。(2)イエスは神の子でしたが、一人の人間として死を迎えなければなりませんでした。そのため、神はこの時、一時的にイエスから身を隠されました。イエスはそれを神に見捨てられたと感じられた。文字通り、イエスは人として死と言う苦しみを一人で背負われたという解釈です。
また、イエスが息を引き取られると38節「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。神殿には聖所と呼ばれる所があり、また、その奥に至聖所と呼ばれる部屋があります。この至聖所には、大祭司だけが一年に一回だけ、動物の血を携えて入ることができる聖なるところとされていました。この聖所と至聖所は幕で仕切られていて、イエスが息を引き取られた時、この幕が真っ二つに裂けたということです。その意味は、今まで、大祭司だけが一年に一回だけ幕を通って神に近づいていましたが、その隔ての幕が避けたことによって、イエスを通して、だれでも神に近づくことができる時代が到来したことを象徴的に表した出来事でした。
イエスを「贖い主」と呼びます。「贖う」とは代価を払って買い取ることを意味しています。イエスは私たちを救うために、神の子としての身分を捨て、また、十字架の上でご自分のいのちをお捨てになられました。罪のない神の子が罪びとの代わりにご自分のいのちを犠牲にされたのです。私がこの話を聞いたとき、真剣にこのことに向き合わなければならないと感じました。「本当に神の子が人となられたのか」「十字架で死なれたのか」「それによって自分の罪が本当に赦されるのか」私は聖書を通してそれが真実であると信じました。
ピリピ人への手紙2章6節~8節「キリストは、神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」とあります。これが物語や作り話であるなら、私たちには何の影響も与えません。しかし、本当に神の子が聖書が教えるように、私たちの罪のために、人として生まれ、十字架でいのちを犠牲にされたとしたら、私たちはこの出来事を無視することはできません。神がここまで犠牲を払われたできごとです。私たちはそれに対してどう対応するべきでしょうか。(1)自分の罪を認めて、イエスによる救いをいただく。(2)過去の出来事として無視する。私たちは生きている間に自分の態度を明らかにしなければならないのです。今年もイースターが近づきました。今年のイースター、皆さんにとって忘れられない特別な時となりますようにお祈りします。