罪人の身代わりとして死なれた神

「罪人の身代わりとして死なれた神」ヨハネ8章1節~11節

今日のお話は、姦淫の現場で捕らえられた女性の罪の赦しについてです。罪とは、一般に国で定めた法律から外れた行為を罪と定めます。車で規定されているスピードを超えて走ればスピード違反の罪を犯したことになります。たまたま警察に見つかって反則切符を切られたから罪になるわけではありません。また、ある中学生が万引きで捕まった時、店の主人に言ったそうです。「金を払えばいいんだろう。」万引きの罪は金銭の問題ではありません。他人の物を取ること自体が犯罪であり、金を払うまたは弁償すれば済むという次元の問題ではありません。また、法律は国によって違いがあります。それゆえ、ある国では違法であっても、ある国では合法である場合もあります。アメリカでは、拳銃は登録すればだれでも持つことができます。しかし日本では、一般市民が銃を持つことは法律違反となります。つまり、国が定める罪の基準が国によって異なり、罪意識も違うということです。人間が定めた法律は国によって違いがあります。そういう意味では、法律は正しい尺度、基準になりえず、あいまいなものであると言えます。しかし、神様が定めた基準ははっきりしています。なぜなら、人の罪を裁く権威を持たれた神ご自身が定めた基準だからです。そういう意味では、神様が定めた律法は、国や時代を超えて、生きている者すべてに適応される罪の基準と言えます。私たちが正しい罪意識を持つためには、聖書から学ばなければ、正しい罪意識を持つことは出来ないのです。

今日の個所で問題になっている罪は「姦淫」という罪の問題です。姦淫の罪は、モーセがイスラエルの民に与えた十戒の中にも記されている有名な罪です。また、姦淫の罪は重く、姦淫の現場で捕られた者は、石を投げられて殺されるという厳しい刑罰を受けなければなりませんでした。日本では有名人の不倫についてはテレビで放送されますが、姦淫をしたとして、テレビで放送されることはありません。なぜなら、姦淫は日本では罪の問題にならないからです。姦淫は強姦とは違い、両者の了解のもとで行われる性的行為です。未成年者との性的関係は罪に定められますが、成人した男女であれば、家族や個人の問題ではあるかもしれませんが、日本の法律では罪に定められることはありません。(売春や援助交際などは罪に定められます。)そういう目線で今日のお話を見るなら、姦淫の罪で殺されるなんてかわいそうという同情の思いを持つ方が多くいるかもしれません。しかし、神様の見る目は、姦淫という性の乱れは、社会の乱れ、道徳の乱れに繋がり、それは、国を亡ぼす原因にもなると見ています。旧約聖書でソドムの町が神様の裁きで滅ぼされたのは、同性愛の罪だと言われています。同性愛は神様の秩序を破壊する行為で、神様が偶像礼拝と共に最も嫌われる罪です。

また、今日の聖書の個所は、偶然に姦淫の現場で捕らえられたということではなく、イエス様を罪に定めるために、律法学者とパリサイ人が仕組んだ巧妙な罠でした。この女性は、イエス様を罪に定めるために捕らえられた被害者でもあります。律法学者とパリサイ人は、姦淫の現場で捕らえられた女性をイエス様の前に引き出して言いました。4節5節「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」この質問はイエス様に対する巧妙な罠でした。当時のユダヤ人はローマ政府に支配されており、ユダヤ人には人を死刑にする権限は与えられていなかったため、イエス様が、彼女に対して死刑にするべきだと言えば、律法学者たちは、ローマ政府に「イエス・キリストはローマ政府の法律に対して逆らっています。」と訴え、イエス様をローマ政府の法律で罰することができます。また、彼女を罪に定めてはいけないといえば、イエス・キリストは神様の教え、すなわち律法に背いたとして、ユダヤ教の宗教裁判で裁くことができます。どちらを答えてもイエス様を捕らえ罰する巧妙な罠でした。

ここでイエス様は7節「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼女に石をなげなさい。」と言われました。それを聞くと、9節「年長者たちからはじめてひとりひとり出て行き、イエスがひとりとり残された。」とあります。自分が罪が無いと言える者が一人もいなかったということです。ここに律法の限界があります。バプテスマのヨハネが群衆に語った最初のメッセージが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」でした。イエス様も同じ言葉で宣教を始められました。律法学者たちは、自分たちはアブラハムの子孫であるから罪が無い聖い民であると教えていました。また、バプテスマ(洗礼)についても、異邦人(ユダヤ人以外の人々)がユダヤ教に改宗する場合のみ、洗礼は行われ、ユダヤ人はそれまでだれも洗礼を受けていませんでした。そこに、バプテスマのヨハネが登場し、ユダヤ人もみな同じ罪があると宣告し、バプテスマを受けるように宣べ伝えたのです。それを聞いた一般のユダヤ人たちはバプテスマのヨハネの所に集まり、多くの人々が自分の罪を告白して洗礼を受けました。しかし、祭司や律法学者たちは、自分たちが神様の戒め律法を守っていることを誇り、バプテスマのヨハネのことばに耳を傾けなかったのです。

先ほどの場面には、律法学者たちもいたはずです。しかし、彼らも彼女に石を投げることができませんでした。ここに、律法の限界があります。いくら外側(形)だけ律法を守っても、罪が無いとは自覚できなかったということです。また、イエス様は彼女に言われました。11節「わたしもあなたを罪に定めない。」イエス様は罪が無いお方として、彼女に石を投げる権利のある唯一のお方でした。しかし、イエス様も彼女を罪に定めないと言われました。それは、イエス様が人を罪に定めるために人として誕生された方ではなく、人の罪を背負い十字架で罪人の身代わりとして死ぬために生まれたお方だからでした。この後、イエス様は神様の定めに従って十字架の上で最後を迎えられます。それによって、私たちに罪の赦しが神様より与えられたのです。律法は神様の罪の基準であり、大切な物です。それを知らなければ私たちは罪が何であるか理解できなかったでしょう。しかし、神様の御心は、私たちを罪に定めることではなく、罪から救うことにありました。今日の聖書の個所は、律法学者パリサイ人たちがイエス様を陥れるために準備した個所ですが、イエス様はそれを律法による救いの限界を示す場面として用いられたのです。律法学者パリサイ人たちにとって、神が人として生まれるなど考えられませんでした。まして、神が人の罪の身代わりとして死刑の刑罰を受けるなど、人間の知恵では理解できないことです。しかし、神の愛は私たちの理解を越えて大きく、歴史的事実として、イエス・キリストは神の計画に従って十字架の上で死んでくださいました。また、そのことを理解するためには聖霊の助けが必要です。私たちが自分の罪を認め、神様に助けを求める時、私たちは聖霊に助けを受けて、イエス・キリストの十字架による救いの意味を理解できるようになるのです。