ルカの福音書19章1節~10節
ある牧師の証しの本を読んで感動したことがあります。彼は高校生の時、悪いグループに入り、暴行や盗みを働いていました。結局、彼は警察に捕まり裁判にかけられました。判決の後、彼の母親は裁判長に「私が悪いのです。この子を赦して私を罰してください」叫びました。母の叫びが彼の心に響いて、彼はその時、二度と母を悲しませることはしないと心に誓いました。そして刑務所で牧師と出会い、神の愛を知りクリスチャンになりました。その後、彼は神から牧師になるように証明を受け、神学校で学び牧師になりました。彼が悪から立ち直ったのは、母の愛と神の愛ゆえでした。
新約聖書の中で、ユダヤ人たちから一番嫌われた職業が「取税人」という仕事です。この時、ユダヤはローマ政府に支配されていました。ローマ政府はユダヤ人から税金を取り立てましたが、プライドの高いユダヤ人たちは、たびたび、そのために暴動を起こしました。そこで、ローマ政府はユダヤ人を雇い彼らに税金を集めさせたのです。取税人は同じ国民であるユダヤ人からローマ政府のために税金を集めるという仕事です。ユダヤ人たちは取税人を嫌い「犯罪者」「罪人」「売国奴」と呼び、彼らをユダヤ人とは認めず、挨拶や食事も一緒にしませんでした。しかし、取税人は税金を不正に取り立て金儲けをし、大きな家に住んでいたました。新約聖書には二人の有名な「取税人」が登場します。イエスの弟子のマタイと取税人の頭ザアカイです。
1、マタイ(マタイの福音書9章9節~13節)
9節「イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」とあります。ここで考えられることは、聖書には記されていませんが、マタイは以前からイエスのことを知り、イエスの話を聞いていたのではないかということです。つまり、マタイはイエスの話しを心に留めていたが、まだ、取税人という仕事を捨てる決心がついてなかった。そんな時に、マタイはイエスに呼ばれて、イエスの弟子になる決心をしたのでないかということです。彼はお金持ちで大きな家に住んでいました。しかし、彼の日常は、同じユダヤ人から嫌われ、孤独と疎外感を感じる毎日でした。お金があり、大きな家に住んでも、彼は幸せではありませんでした。そんな中、イエスの話を聞き、人生を変えたいという思いがあったのではないでしょうか。イエスの弟子となったマタイが最初にしたことがイエスを家に招いて、同じ取税人仲間や罪人として社会から疎外されている人を集めてイエスを紹介することでした。10節「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」とある通りです。マタイは取税人という仕事や家を捨てて、イエスの弟子となったのです。そこに、マタイの変えられた姿、喜びの姿が表されています。しかし、ユダヤ教の指導者パリサイ人たちは、イエスや弟子たちの姿を見て批判したとあります。イエスは彼らから批判を受けるのを覚悟したうえで、罪人と嫌われた取税人マタイを弟子として招いたのです。
2、ザアカイ(ルカの福音書19章1節~10節)
ザアカイは取税人の頭です。彼はマタイのような取税人を集めて、多くの税金を集めていました。それゆえ、マタイよりもお金持ちで、さらにユダヤ人から嫌われていたと考えられます。ザアカイは、彼が住む町エリコにイエスが来たことを知りました。この時、ザアカイは取税人のマタイがイエスの弟子になっていたのを知っていたのではないでしょうか。ザアカイはユダヤ人から嫌われている取税人を弟子としたことを知って、イエスに興味を持ったのかもしれません。3節「彼はイエスがどんな方か見ようとしたが、背が低くかったので、群衆のために見ることができなかった。」とあります。そこで彼は木に登ってイエスを見ることにしました。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。』」ザアカイはどんなに驚いた事でしょう。イエスが自分の名前を知っておられただけでなく、自分の家に泊まって下さるとは、ザアカイは喜んでイエスを家に招いて、マタイのように宴会を催しました。ここで、イエスは、ザアカイが行っている不正について何も咎めていません。それなのに、彼は自ら財産の半分を貧しい人々に施し、脅し取った物を四倍にして返しますと人々の前で宣言したのです。8節「ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。』」何が、彼をこのように変えたのでしょうか。マタイとザアカイに共通することは、「孤独と疎外」です。二人はお金がありながら人々に嫌われ、ユダヤ人社会から孤立し疎外されていました。そんな二人にイエスから近づいて来て声をかけたのです。二人はどんなに驚き喜んだことでしょう。孤独とは山奥で一人でいる時に感じる感情ではありません。都会の中にあっても、誰も繋がりが無い時、人は孤独を感じます。たとえ、家の中で家族と生活していたとしても、家族が自分を理解してくれない場合、人は孤独を感じます。ユダヤ人社会から疎外され孤独なマタイとザアカイにイエスが近づいて来られました。福音とはそういう意味だと思います。自分で神を捜し出して神を見出すのではなく、神が私たちを捜して手を伸べて下さる。私たちはその神の手を握るか拒否するかです。マタイとザアカイは神の手を握ったのです。
マタイの福音書5章3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」とあります。ここでイエスが言われた「心の貧しい者」とは、この世の物で心が満たされない、心が空っぽの人のことだと教えられました。確かに、この世の物、お金や地位や名声で満たされている人は神を求めることはありません。この世の物で満足できない人こそ、マタイやザアカイのように神を信じる人になるのです。神は私たちと共におられます。詩篇の23篇でダビデはこのように告白しています。詩篇23篇1節~6節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。たとえ、死の影の谷を歩むとしても、私はわざわいを怖れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。」ダビデは羊飼いの家に生まれましたが、神の恵みによってイスラエルの二番目の王に選ばれた人物です。しかも、彼は神に選ばれすぐに王になったわけではありません。サウルという王に命を狙われ、彼から逃げ回らなければなりませんでした。そんな中、ダビデは神の愛と助けを得て、神への信頼が増していったのです。ここで言われている「むちと杖」は外敵から羊を守るために使われる道具のことです。神はこのように私たちを選び近づいて下さるお方です。自分で神を選んだなら、自分の責任です。しかし、神が私たちを選んでくださったならば、神に私たちを選んだ責任があります。それゆえ、神は私たちを愛し、絶対に見捨てることはありません。それが、ダビデの確信であり、私たちの信仰の土台なのです。