「肉体の渇きと魂の渇き」詩篇42篇1節
あじさいがきれいに咲く季節となりました。また、6月は雨の多い月で、一般の人には長雨は嬉しいものではりません。しかし、農家の方に取って、雨は作物を作る上で欠かせない恵みの雨です。イスラエルの民がエジプトから助けだされ、荒野を40年さまよい、ヨシュアによってカナンの地に入り、その地を征服しました。しかし、ヨシュアや荒野の苦しみを乗り越えた人々が亡くなると、イスラエルの民は、モーセによって与えられた戒め十戒を忘れ、その土地の神々を礼拝するようになりました。私は、この箇所を読んで、イスラエル民はどうしてそんなに簡単に今まで自分たちを守ってくださった真の神を捨て、カナンの地の神々を礼拝したのかその理由がわかりませんでした。その答えを、神学校で旧約聖書を教える先生が教えてくださいました。イスラエルの民は荒野で生活する遊牧民族でした。それゆえ、農耕技術を持っていませんでした。しかし、イスラエルの民がカナンの地に定住するためには農業技術が必要で、彼らはその技術を先住民族のカナン人の生活から取り入れることによってこの問題を解決しようとしたのです。しかし、農耕生活をするためには自然の助けが必要です。カナン人たちはそのために神々を祭り、神々を礼拝しました。イスラエルの民も自分たちの生活を守るためにカナン人たちの習慣、祭りを取り入れることによって、カナンの地に定住しようとしたのです。つまり、イスラエル民は自分たちの生活を守るために、今まで自分たちを守ってくださった神様を捨て、自分たちの農耕生活を守る、カナンの地の神々を礼拝するようになったということです。
マタイの福音書4章に、イエス様が荒野で40日断食した後、悪魔がイエス様を誘惑したお話しがあります。3節「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエス様は悪魔に言われました。4節「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」とお答えになられました。この時、イエス様が引用されたのが旧約聖書の申命記8章3節のことばです。荒野は食べ物が無い地です。イスラエルの民はどうやって荒野で40年も生活できたのでしょうか。それは、神様が毎日、イスラエルの民に「マナ」という食べ物を与えられたからです。イスラエルの民は、荒野を40年間歩むことによって、自分たちは神様によって守られている(生かされている)ことを学ばされたのです。
詩篇の42篇に戻って。詩篇42篇の作者は1節2節で、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」と自分の今の状態を告白しています。肉体の空腹は誰でも体験します。しかし、魂の渇きはどうでしょうか。私は、中学の頃から魂の飢え渇きがありました。自分はなぜ生まれたのか。生きる目的がわからない。それなら、いっそ死んでしまおうかとも思いました。肉体の空腹は、何でもお腹に詰め込めば問題は解決します。しかし、魂のうえ渇きを満たすものは何でも良いというわけにはいきません。私はそのために、出世やお金儲け、有名になることの夢で、その渇きを満たそうとしました。しかし、どれも私のうえ渇きを満たすものはありませんでした。私たちはこころというものを見ることができません。しかし、神様が私たちの肉体も作ってくださったならば、私たちのこころをも作ってくださったのではにでしょうか。ジグソーパズルというのがあります。パズルの一つ一つのピースをあつめて絵や写真を完成させます。あるものは百ピース。あるものは何千ピースのものまであります。しかし、どんなものでも一つのピースがなければジグソーパズルは完成しません。私たちのこころも同じではないでしょうか。私たちのこころは真の神が入ってはじめて完成され満足を得ることができるのです。
詩篇42篇の作者は何に苦しんでいたのでしょうか。3節「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。」とあります。詩篇42篇の作者は、イスラエルの国が亡んだ後の人物であると推測します。国が滅びるとはその国を守っていた神が負けたことを意味しています。南ユダ王国がバビロニヤの国に負けた時、イスラエルの神はバビロニヤの神に負けたと人々は思いました。しかし、実は、神様は南ユダ王国の不信仰のために、あえて、自分の国をバビロニヤの国に滅ぼさせたのです。しかし、人々はそれを、イスラエルの神は敗れたと言って自分の国の神々を誇ったのです。多くの人々は、クリスチャンが苦しむ姿を見て、神様を信じているのにどうしてそんな苦しみを受けるの、本当に神様はいるのと私たちの苦しむ姿をみて、だから神様は存在しないと決めつけます。しかし、神様を信じるということは苦しみが無い人生を送るとうことではありません。神様を信じるとは、苦しみの中でも神様から助けを与えられ、希望を失うことがないということなのです。詩篇42篇5節を読むと「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。わたしの前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」とあります。苦しみの中でも絶望すること無く神の時を待ち望むことができるこれこそが信仰の力なのです。
お腹が空いている時、おにぎり一つがごちそうになります。また、喉が渇いた時に飲む水は何にもまして美味しく感じます。魂も同じです。イエス様はマタイの福音書5章3節でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」「心の貧しい者」とは心が空っぽの状態を指します。つまり、心をこの世のもの、財産や名誉、快楽などで満たすことのできない人。その人の心は神様しか満たすことができません。それゆえ、その人は天の御国を自分のものとする幸いな人だとイエス様は言われたのです。あなたの魂は飢え渇いているでしょうか。それならば、神様を求めましょう。神様は必ずあなたの渇いた心を神様の愛で満たして下さいます。