ヨシュア記1章1節~9節
イスラエルの民はカナンの地に近づき、12人の偵察隊を送りました。彼らは40日の後モーセと会衆の前で、カナンの地について報告しました。その内の10人は、その地の種族の体は大きく、町が堅固な城壁で囲まれていると報告しました。それを聞いて人々は動揺しました。カレブは民を静めて、神が共におられれば勝利することが出来る。カナンの地は乳と蜜が流れるすばらしい土地なのでぜひ、上って行くべきだと主張しました。彼らの報告を聞いた人々は、10人の意見を聞いて、失望しエジプトに帰ろうと言い出しました。それを聞いた神は、彼らの不信仰のゆえに彼らを滅ぼそうとしましたが、モーセのとりなしの祈りによって、滅びは免れました。しかし、40年荒野をさまよい歩くという試練が与えられました。この40年の間に、不平を漏らした大人たちは亡くなり、その子どもたちが大人に成長し、神は彼らによって新しいイスラエルの民を形成しました。その後、モーセに代わって新しいリーダーにヨシュアが選ばれたのです。
イスラエルの民は、もう一度カナンの地に近づきました。モーセはこの時、すでに天に召されていました。神はモーセに代わるリーダーとして、モーセの従者ヨシュアを選ばれました。ヨシュアは喜んだでしょうか。聖書にはこの時のヨシュアの気持ちは書かれていません。しかし、神はヨシュアに対して三度も「強くあれ、雄々しくあれ。」と呼び掛けています。
(6節7節9節)この言葉から推察して、この時のヨシュアは、モーセの後継者として神に選ばれたことに恐れおののいていたのではないかと思います。ヨシュアはモーセの従者として、モーセの近くで彼の働きを何十年と見てきました。ヨシュアにとってモーセは偉大な先生であり師匠でした。そのモーセがこの40年の間どんなに苦労してイスラエルの民を導いて来たか身近で見てきました。大先生であるモーセですらあんなに苦労したのに自分がモーセに代わってイスラエルの民を導くなど恐れ多いことだったでしょう。また、前任者が偉大であればあるほど、後継者は自分と前任者を比べて自信を失うものではないでしょうか。その臆するヨシュアを励まして神は彼に言いました。2節3節「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」神はすでにカナンの地を与えていると言われましたが、この時点ではまだ、カナンの地を得ているわけではありません。しかし、この神のことばは預言的な意味を含んだことばで、すでにカナンの地は与えられていると神はヨシュアに断言されたのです。5節「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」モーセの偉大さは、彼の力と知恵によるものではありませんでした。彼を偉大な者としたのは神ご自身です。その神が自分とともにおられるという約束は、ヨシュアにどれほど大きな勇気を与えたことでしょう。また「見放さず、見捨てない」ということばは、大きな慰めのことばとなったことでしょう。6節7節「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。」ここで神が言われたことは、神がともにおられることの条件です。神はヨシュアに「モーセがあなたがたに命じた律法のすべてを守り行うため。これを離れて、右にも左にもそれてはならない」と言われました。また、8節「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」祝福の根源は、神の戒めを守り行い、いつもそこから離れないことです。それが、昼も夜もそれ(律法)を口ずさむことです。9節「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」
神はなぜ、モーセの後継者としてヨシュアを選ばれたのでしょうか。一つは、彼がモーセの従者で、モーセとともに神が働かれるのを身近で見ていたからです。もう一つの理由として考えられることは、彼が自分の弱さに気付いていたからではないでしょうか。新約聖書のコリント人への手紙第二12章でパウロは、高慢にならないように神から肉体に一つのとげが与えられたと告白しています。また、それをサタンの使いとも表現しています。パウロはこの使いを去らせてくださいと三度、主に願いました。9節10節「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」この世の法則では、強い者が支配します。それゆえ、人は強さを求めます。しかし、パウロは反対に弱さを誇ると言っています。なぜなら、自分の弱さを認め神に助けを求める人ほど、神の力がその人から現れるからです。自分の力を誇る者は神を求めません。自分の弱さを認める人こそ、神の助けを求める人です。また、自分の罪を認める人も神の救を求める人です。自分の弱さや罪深さを認めることは恥ずかしいことであり、苦しいことです。しかし、本当の自分の姿はどうでしょうか。私たちは明日の事も分からない者です。また、自分のいのちを延ばすこともできない弱い者です。それゆえ、私たちは神の助けと救いを必要とする者なのです。「病者の祈り」という詩があります。これは、ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた患者の詩です。作者はわかりません。
「大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに
よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富をもとめたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものをもとめたのに
あらゆるものを喜べるようにと 生命をさずかった
求めたものは一つとしてあたえられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表さない祈りは すべてかなえられた
私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ」
私たちは強い者でしょうか。神を必要としない者でしょうか。
自分自身に深く問いかけ、自分の本当の姿を受け入れたいと思います。