苦しみを受ける救い主の預言

「苦しみを受ける救い主の預言」イザヤ書53章1節~12節

旧約聖書はユダヤ人にとって神のことばとして信じられています。私たちクリスチャンは、新約聖書と旧約聖書を合わせて神様のことばとして信じています。旧約聖書は私たちにとって歴史の書だけではなく、預言の書として大切な書物です。その旧約聖書の預言の多くが、救い主イエス・キリストについての預言だからです。

新約聖書の使徒の働き8章で、エチオピヤの女王カンダケの高官がエルサレムでの礼拝の帰り、馬車の中でイザヤ書の53章を読んでいました。神様は彼のためにピリポを遣わし、この個所で言われている苦難のしもべがイエス・キリストであることを証言しました。すると、この高官はピリポの話を聞いてイエス・キリストを救い主と信じ、その場ですぐに洗礼を受けたのです。

ユダヤ人にとってもこのイザヤ書53章は難解な個所とされていました。多くのユダヤ人たちは、この苦しみを受ける主のしもべを、自分たちユダヤ民族であると理解していました。しかし、私たちキリスト者は、この苦しみをうけるしもべがイエス・キリストであり、それは、イエス・キリストが十字架で受けた苦しみによって、私たちの救いが完成されたと信じています。今日は、このイザヤ書53章を通して、苦難のしもべとイエス・キリストの十字架の死について考えます。

1.救い主の姿。

イザヤ書53章2節「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」とあります。イエス様がお生まれになられた家は、貧しい大工の家庭でした。また、ナザレという町も貧しい田舎でした。イエス様が王様の子として王宮で生まれたなら、または、祭司の家庭に生まれたならば、見ばえも良く、家柄も素晴らしい家庭であったなら、パリサイ人、律法学者、祭司たちは違った目でイエス様を尊敬したのではないかと思います。しかし、神様の救いの計画ははそのような高い身分の者たちではなく、貧しい者たちに向けられていたのです。

2.「私たちも彼をたっとばなかった。」(3節)とあります。

イエス・キリストがエルサレムに入場する時、多くの人々が、しゅろの木の枝を振って勝利の王様を迎えるように大歓迎でイエス様を迎えました。それは、イエス様をローマの支配からユダヤの国を助け出す救い主として群衆がイエス様を迎えたからです。しかし、イエス様はあえてろばに乗ってエルサレムに入られ、群衆が期待する救い主ではないことを公に示しました。また、イエス様はエルサレムで、群衆が求めるような活動をしませんでした。すると、群衆はイエス様に失望し、イエス様から多くの人々が離れていきました。それを知った、祭司長、民の長老たちは、イエス様を捕らえる好機と考え、イエス様を捕らえ、裁判に掛け、死刑の判決を下し、ローマ総督ピラトに、死刑にするように訴え出たのです。ローマ総督ピラトは、祭司長たちが妬みでイエスを訴えていることを知り、イエス様を釈放しようと努力しますが、群衆がイエス様を十字架に付けろと叫び、ピラトは暴動を恐れ、イエス様を無罪と知りながら、イエス様を十字架に付けることを許可したのです。

3.「彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。」(10節)

苦難のしもべの受ける苦しみは、神様の御心でした。それは、苦難のしもべの受ける苦しみによって人々がいやされるため、救われるためでした。新約聖書を読むなら、イエス様が十字架の死から逃れるチャンスはいくらでもありました。また、裁判の場面でも、自分を神の子ではなく、預言者と証言すれば、誰もイエス様に死刑の判決を下すことはできなかったのです。しかし、イエス様は自ら自分のことを神の子と証言されました。人間が自分のことを神と証言すれば死刑になることは誰でも知ってることでした。イエス様は自ら死刑の刑罰を受けるために、ご自分の本当の姿を証言されたのです。

4.「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人々を義とし、彼らの咎を彼がになう。」(11節)

神様の御心は、主のしもべ(イエス様)によって、私たちの罪の問題を解決することでした。天国は罪の無い世界です。それゆえ、私たちは自分の罪の問題を解決しなければなりません。ユダヤ教は、そのために膨大な戒めを作り、その戒めを守ることによって義人となり、罪の問題を解決しようとしました。しかし、それは、不可能なことです。どんなに行いに気を付けたとしても、人は、心の中を制御することはできません。ユダヤ人が考えた罪とは、人間関係に関する罪です。殺人や姦淫、盗みなど。しかし、イエス様が教える罪は、人間の心の中から発する罪です。妬みやさげすみ、高慢など。それは、罪を裁くのが人間ではなく、神様だからです。神様は心の中の隠れた罪をも裁きます。であるなら、私たちはそのような隠れた罪をどうすればよいでしょうか。結局、人間は生涯罪から離れることはできないということです。

5.結論。

ユダヤ人たちが求めた救い主は、ローマの支配からユダヤの国を助け出し、独立国とするような革命的な王でした。しかし、神様が私たちのために、遣わされた救い主は、大工の息子で、ロバに乗ってエルサレムに入場された平和の王でした。また、その救い主は、人々の罪の身代わりとして十字架に付けられ殺される苦難のしもべでした。私たちの罪を赦すためには、罪の無い神の子が、身代わりとなって死んでくださらなければ、私たちの罪の問題は、解決することはできませんでした。神はそのために、ひとり子イエス様に、私たちの罪を負わされたのです。ここに神様の深い愛が示されています。罪人のためにひとり子を十字架で罰する神の愛。罪人のために無実で十字架に付けられたイエス・キリストの愛。私たちの信仰とは、この神の愛とキリストの愛を信じるところから始まるのです。今週は、キリストの受けた苦しみを覚える、受難週です。また、来週の日曜日はイースター礼拝です。今週一週間、イエス様が受けられた苦しみを覚え、また、心整えてイエス様の復活、イースターの日を迎えましょう。