見えざる神の御手

「見えざる神の御手」出エジプト記2章1節~10節

9月24日に出エジプト記1章からお話をして、時間が空いてしまいましたが、今日は出エジプト記の2章から学びます。出エジプト記1章で、三つのことをお話しました。1、出エジプト記と創世記の間には繋がりがある。2、ヤコブの子孫が一つの国民となるためには、エジプトのような大きくて豊かな国が必要であった。3、イスラエルの民がエジプトを出るために神様はエジプトの王の迫害を利用された。(この迫害が無ければイスラエルの民は、エジプトに定住してしまっただろう。)

出エジプト記2章の背景は、ヘブル人にとって一番迫害の厳しい時代でした。男の子が生まれたらナイル川に投げ捨てなければならないという時代です。このヘブル人にとって暗黒の時代と言える時に、モーセは誕生しました。今と違って、男の子が生まれるか女の子が生まれるのか、生まれるまで判断ができない時代です。モーセの両親としては、女の子が生まれてほしいと願ったのではないでしょうか。しかし、生まれたのは男の子でした。モーセの両親はその子がかわいいのをみて、何とか生かしたいと思い、エジプトの王の命令を恐れながらも、隠して我が子を育てる決心をしました。しかし、次第に赤ちゃんの泣き声が大きくなり、隠しきれないと思ったモーセの両親は、赤ん坊をかごに入れて、ナイル川に置き、だれかに拾われてでも、我が子が生き延びることを願いました。

その赤子のかごを拾い上げたのは、エジプトの王の娘でした。彼女は、その子がヘブル人の子供と知りながら、その子を引き取り、自分の子として育てることを決心しました。しかも、その光景を見ていたモーセの姉(ミリアム)は王の娘の前に現れ、この子のためにヘブル人の乳母を探してきましょうかと提案し、自分の母を連れてきたのです。モーセは、エジプトの娘の子として、モーセの実家でしばらく育てられることになったのです。

モーセが何歳まで実家で育てられたのかはわかりませんが、このことは、モーセがヘブル人としての自覚を持つために大切な時間でした。そして、今度はモーセは、エジプトの王宮でエジプトの指導者になるために、最高の学問を身に着けることができました。モーセが40歳になった時、彼には二つの選択が与えられました。1、エジプトの王宮で、王様の娘の子としての、将来が保証された生活。2、ヘブル民族として、虐げられている民を助ける道。この時、モーセは自分の力でヘブル人を助ける道を選びましたが、まだ、神様の時ではありませんでした。モーセがヘブル人を苦しみから助けるためには、さらに、40年の歳月が必要だったのです。

ここまで見てきて、エジプトにおけるヘブル人の苦しみは何ら変わっていません。ヘブル人たちはこの状況に失望していたのではないでしょうか。神様に助けを求めても、神様に祈っても神様は何もしてくれない、もしかしたら、自分たちは神様に見捨てられたのかもしれないと考えていたかもしれません。彼らの前には、何の光も、明るい状況も見えていません。しかし、神様は何にもしていないでしょうか。神様は彼らを助けるために、モーセを誕生させました。次に、モーセをエジプトの王の娘の子にしました。しかし、これらのできごとは、イスラエルの民には隠された出来事で、彼らの目から隠された神様の御手です。私たちは早く助けてもらいたい、苦しみから解放して欲しいと願いますが、思うようにならないことが多くあります。しかし、私たちの思い通りにならなくても、神様の手がすでに働いていることを忘れてはなりません。

神様の御手は、人の目には容易に見えませんが、信仰の目を持って神様の御業を待ち望むなら、神様の御心(御手)を知ることができます。出エジプトの後の出来事ですが、イスラエルの民が神様の約束の地カナンに近づいた時、モーセは12人の偵察隊をカナンの地に送り出しました。彼らが40日後、イスラエルの民のところに戻った時、12人のうち、10人はカナンの地は、大きな城壁の町があり、体の大きな民が住んでいることを報告し、自分たちがイナゴのように見え、到底その地を征服できないと報告しました。しかし、そのうちの二人、ヨシュアとカレブは同じような状況を見ながらも、神様の御心なら私たちは、その地を征服できるから前進するべきだと民に呼びかけました。結局、イスラエルの民は10人の報告を信じて、エジプトの引き返そうと言い出し、神様の怒りを受けて、40年の間、荒野をさ迷い歩くことになってしまいました。そして、この40年の間に、ヨシュアとカレブ以外、他の大人たち(エジプトに帰ろうと言った民)は死に絶え、彼らの子供たちが成長し、ヨシュアとカレブと共に、カナンの地を征服することができたのです。ヨシュアとカレブも他の10人と同じ状況を見ていましたが、彼ら二人には、さらに神様の御手が見えていたのです。信仰によって歩むとはそういうことです。私たちは、信仰によって、神を信じることによって、希望の光が見えてくるのです。

モーセは40歳の時に、ヘブル人を苦しみから解放しようとしましたが、失敗してしまいました。それは、肉の力で、神様の御業ではありませんでした。モーセはさらに40年の準備が必要でした。私たちも、モーセと同じような失敗をしたことがないでしょうか。動機は良くても、祈らないで自分の力、知恵に頼ってしまうことが。私たちは神様の時を信頼して待たなければなりません。自分の力や熱心で神様の力を引き出すことはできないのです。

しかし、神の時を待つとはじっとして、その時を待つことだけではありません。祈りつつ歩むということです。御心でなければ引き返す勇気を持つことも必要です。

試練の中にある時、二つのみことばを思い出しましょう。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント人への手紙第一10章13節)

「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたには十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現せるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント人への手紙第二12章9節10節)