「見ずに信じる者は幸いなり」ヨハネの福音書20章24節~30節
イエス様の生涯は33年の短い人生でした。また、その働き、宣教活動は3年半しか活動はしていません。イエス様はその3年半の間に、12人の使徒を選び、その働きは12使徒が引き継ぎ、イエス様の死後、その弟子たちが、世界中にキリスト教を広めたのです。その12使徒の中で、トマスという人は、疑り深いことで有名になってしまいました。それは、イエス様が十字架に付けられ殺された後、復活して、弟子たちの前にその復活した姿を現されましたが、トマスはその場にいませんでした。それゆえ、トマスは、イエス様の復活を弟子たちの話を通して知らされたのです。その時のトマスの反応は、25節「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言うものでした。その八日後、イエス様はトマスのためにもう一度弟子たちの前にその姿を現され、トマスに言いました。27節「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスはイエス様に何と言ったでしょうか。28節「私の主。私の神。」トマスは自分のためにもう一度、イエス様がその姿を現してくださったことに感動したのではないでしょうか。しかし、話はここで終わっていません。イエス様はさらにトマスに言われました。29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ここでイエス様が言われた、「見ずに信じる者」とは誰を指しているでしょうか。それは、私たちを指しています。それは、トマスに姿を現された後、イエス様はその姿を現すことなく、天に昇って行かれました。それゆえ、私たちはトマスのように、イエス様の復活の姿を見て、イエス様を信じることはできなくなりました。しかし、イエス様は、トマスのようにイエス様の復活の姿を見て信じる者より、イエス様の復活の姿を見ずに信じる者が本当の幸いな人だと言われたのです。それはどういう意味でしょうか。
私が教会に来はじめた頃、イエス様が処女のマリヤから生まれたことと、イエス様が死んで三日目に復活されたことを信じることができませんでした。それどころか、イエス様の処女降誕と復活を本当に信じているクリスチャンという人がいることに理解できませんでした。そんな、非科学的、非現実的なことをどうして真剣に信じることができるのか、不思議で仕方ありませんでした。しかし、教会には興味があったので、続けて礼拝には参加していました。次第に、洗礼を受けてクリスチャンになりたいと思いましたが、どうしても、イエス様の処女降誕とイエス様の復活を信じることができませんでした。次第に、彼らと自分との間に壁を感じるようになりました。そこで、なんとか、このイエス様の処女降誕とイエス様の復活を信じたいと思いましたが、どうしても信じることができませんでした。そこで、私はイエス様に祈ることを決心しました。その祈りというのが、「どうぞ、イエス様、私はあなたを信じたいです。ですから、夢の中でも、または、幻でもいいですから、あなたの姿を私の前に現してください。」という祈りでした。ある時、そのことを牧師先生に相談したことがあります。すると、先生は、「そのような祈りはしてはいけません。」と言われました。そして、さらに、「聖書に、『見ずに信じる者は幸いです。』とあります。聖書の御言葉を通して信じなさい。」と言われたのです。私はそれから真剣に聖書を読むようになりました。そこで、私は一つのことに気が付きました。それは、聖書はイエス・キリストを神の子と証言しているということでした。実は、私が信じることができなかったできなかったのは、処女降誕やイエス様の復活ではなく、イエス・キリストが神の子であることを、信じることができないのだということでした。私は、イエス・キリストを同じ人間のレベルでしか見ていませんでした。それゆえ、人間イエスが、処女のマリヤから生まれるわけはないし、殺されたイエスが甦るわけがないと考えていたのです。しかし、イエス・キリストが聖書が証言するように、神の子であったならどうか、処女のマリヤから生まれることも、死から甦ることもできると信じるに至ったのです。
今でも、どのような方法で、イエス様が処女のマリヤから生まれたのか、どうやってイエス様が死んで甦ることができたのか、その方法はわかりません。しかし、なぜ、神の子であるイエス様が処女のマリヤから生まれたのかその理由は理解できます。また、なぜ、イエス様が十字架に付けられ、殺され、三日目に甦られたのか、その理由は理解できるようになりました。それは、私たちの罪を赦すためには、罪の無い身代わりが必要でした。この世に罪の無い人はいません。しかし、神は罪の無い唯一のお方です。しかし、神は肉体を持っていません。また、私たちの身代わりとして死ぬことはできません。それゆえ、罪の無い神が肉体を持ってこの世に生まれるためには、一人の処女の協力が必要でした。マリヤはそのために神様に選ばれ、信仰によって神様のご計画を信じたのです。また、人として生まれたイエス様も、その本質は神であることに変わりありません。それゆえ、死は、イエス様を支配することはできませんでした。それゆえ、死より三日目に甦り、父なる神のおられる天に昇って行かれたのです。結局、私たちが、イエス様の処女降誕と復活を信じることができるのは、イエス様を神の子と信じることができるかどうかということです。また、そのために重要な事が、人間の力では、イエス様を神の子と信じることはできないということです。イエス様を神の子と信じることは神様の力が必要です。それは、神様からの恵みです。私たちはどんなに勉強しても、努力しても、人間の力では、イエス様を神の子と信じることはできません。それは、人間の理解を越えた世界だからです。しかし、子供でも、神様の力によって、イエス様を神の子と信じることができます。これが神様の恵みです。はじめに、イエス様がトマスに言われた言葉を思い出してください。「見ずに信じる者は幸いです。」それは、見ずに信じる者は神様からの恵みを受けた、幸いを受けたからだということです。この恵みは、人間の努力や力では受けることはできません。しかし、聖書は、求めなさい、そうすれば与えられますと約束して下さっています。それゆえ、私たちが、謙遜な思いで神様に求めるなら、神様は必ず、その人にご自身を現わしてくださいます。それが、神様の恵みによって救われるという意味です。