金持ちとやもめの献金

「金持ちとやもめの献金」ルカの福音書21章1節~4節

ルカの福音書21章1節から4節に、お金持ちとやもめの献金について書かれています。1節を見ると「金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。」とあります。日本でもお正月の三が日、多くの人々が神社にお参りに出かけます。有名な神社になると、何万人もの人々がお参りに集まります。そうすると多くの人々のために、人々は賽銭箱の近くまで行くことができません。私が子供の頃は、毎年、遠くから賽銭箱がある方向に百円玉を投げていました。賽銭箱に入るか入らないかは関係ない、神様にお賽銭をあげたという満足があるだけでした。この時の金持ちたちもそうかもしれません。神様への感謝よりも、これだけささげたと言う満足感でお金を投げ入れていたのかもしれません。また、イエス様は見るからに貧しい女性が神様に献金をささげるのを見ていました。2節「ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。」とあります。「レプタ銅貨」というのは、欄外に1デナリの128分の1に値すると書かれています。1デナリは、当時の一日の労働賃金と言われています。1デナリを1万3千円とすると、レプタ銅貨1枚101円となります。彼女はレプタ銅貨二つを投げ入れたと有りますから、現在で考えるなら100円玉二つを投げ入れたという事です。イエス様はこれを見て言われました。3節4節「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」イエス様は彼女がささげた献金だけではなく、彼女の生活すべてを知っておられました。彼女が神様にささげたのはたったレプタ銅貨二枚だけでしたが、そのお金が、彼女がその時に、持っていたすべてのお金であることも。また、それが彼女の生活費のすべてであることも。彼女はどうして、持っているお金(生活費)すべてを神様にささげたのでしょうか。聖書にはその理由は書かれてありません。しかし、イエス様はご存知だったでしょう。私たちは、お金に換算できない感謝の気持があることを知っています。あるテレビドラマで、こどもの病気が奇跡的に助けられた場面を見たことがあります。こどもの両親はどれほど医者に感謝するでしょうか。それは、お金には換算できない気持ちです。こどものいのちをお金で換算できないのと同じです。彼女にはお金に換算できない程の喜びがありました。それが、持っていた生活費全部をささげるという行為になったのです。それに引換、お金持ちたちはどのような気持ちで献金をささげていたのでしょうか。自己満足、または、形式的に。イエス様はその二人を比較してこの貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。」と言われたのです。

そもそも、神様は私たちの献金の何を見ているのでしょうか。旧約聖書創世記の4章にカインとアベルのささげものについて書かれています。アダムとエバに二人の息子が生まれました。兄の名はカイン彼は、土を耕す者となりました。また、弟の名はアベル。彼は、羊を飼う者となりました。ある日、カインは、地の作物から主へのささげものを持って来ました。4節「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。」主はアベルのささげものには目を留められたが、カインのささげものには目を留められなかったとあります。カインはアベルに嫉妬し、彼を殺してしまいました。なぜ、神様はアベルのささげものにに、目を留められて、カインのささげものには目を留められなかったのでしょうか。聖書にはその理由は書かれてありませんが、先ほどの文章でアベルは「彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。」たとあります。この文章の中にアベルの神様への感謝の気持を読み取ることができます。しかし、カインはどうだったでしょうか。聖書はただ、「カインは地の作物から主へのささげものを持って来た。」とあるだけです。カインの心に神様に最上のものをささげるという感謝の気持はありませんでした。神様の関心は、ささげられたもの、羊か作物かではありません。どのような気持ちでその人が神様に捧げているのか、心の中を見られます。アベルの感謝の気持が神様の目を留めさせたのです。

私たちのささげものはどうでしょうか。献金、礼拝、賛美。これらささげものの背後に、神様の目を留める感謝の気持があるでしょうか。今から30年前に洗礼を受けたとき、私の心には、確かに感謝の気持がたくさんありました。あれから、30年、あの時と比べてどれほどの感謝の気持があるでしょうか。ヨハネの黙示録2章から七つの教会に神様から送られた言葉があります。エペソの教会に送られた言葉の中に、4節「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。また、5節「それで、あなたは、どこから落ちたのかを思い出して悔い改めて、初めの行いをしなさい。」とあります。「どこから落ちたのか」私たちが救われる前の状態はどうだったでしょうか。私たちはどのような状態から、神様によって救い出されたのでしょうか。その原点を思い出し、立ち返りなさいと言う事です。原点を忘れると人間は高慢になります。自分の力で生き、自分の力で問題を解決したと思い込むからです。そして、神様への助けを忘れ、また、自分中心の生活に戻ってしまうのです。イスラエルの一番初めの王サウルは、神様にイスラエルの王と選ばれたとき、謙遜に神様の計画を受け入れました。しかし、次第に高慢になり、自分を誇るものとなり神様から退けられてしまいました。それに比べ、パウロは、自分の弱さをよくしっていました。コリント人への第二の手紙12章9節10節「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからです。』と言われたのです。ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ私は強いからです。」神様を知る以前、私たちは自分の力を誇り、自分の力に頼るものでした。しかし、今は、自分の本当の姿を知り、自分が弱いものであることを受け入れました。それゆえ、私たちは神様の助けを必要とする者とされたのです。貧しいやもめが、生活費のすべてを神様にささげることができたのは彼女が神様の助けがあることを知っていたからではないでしょうか。それこそが信仰であり、彼女の喜びの源だったのです。以前、私は自分の力で生きていると信じていました。それゆえ、一生懸命働かなければなりませんでした。しかし、今は、神様に生かされていることを知りました。この貧しいやもめも同じではないでしょうか。神様が必要は満たし養って下さる。だからこそ彼女は自分の生活費すべてを神様にささげることができたのです。