民数記21章4節~9節
アブラハムの子孫、ヤコブの家族はエジプトの国に移住し、彼らの人口は増大しました。エジプトの王はイスラエルの民(へブル人)を恐れ、彼らを苦役で迫害し、男の子がうまれたら、殺すように命じました。へブル人は迫害と苦しみの中、神に助けを求めました。そして生まれたのがモーセです。モーセはへブル人として生まれましたが、エジプトの王の娘の子としてエジプトの王宮で育てられました。モーセが40歳になった時、彼は、へブル人の苦しみを見て、彼らを苦しみから助けたいと思いました。しかし、彼は失敗し、エジプトの王を恐れ荒野へと身を隠しました。それから40年後、神はモーセにエジプトへ行き、へブル人を助けるように命じました。しかし、80歳の高齢になったモーセは神の命令に素直に従うことは出来ませんでした。神は、モーセの兄アロンを協力者として遣わすことを約束して下さり、モーセは兄アロンと共にエジプトに向かいました。しかし、エジプトの王はモーセのことばに耳を貸しませんでした。そこで、神はエジプトの地に10の災害を与えました。その十番目の災害が、エジプトに住む者の長子のいのちを奪うという神の裁きでした。しかし、へブル人には一つの約束が与えられ、彼らは、門と鴨居に羊か山羊の血を塗りました。神はその血を見てその家を通り過ぎました。エジプト人の家の長子は死にましたが、へブル人の長子のいのちは助けられました。エジプトの王は、失意のゆえ、へブル人が荒野に行くことを許可しました。しかし、後になって、エジプトの王はへブル人を連れ戻すために軍隊を差し向けました。へブル人は紅海とエジプトの軍隊に挟まれました。そこで、モーセが紅海に手を指し示すと、海が二つに分かれ、乾いた地が現れました。彼らは海の乾いた地を歩いて渡りましたが、彼らを追ってきたエジプトの軍隊は海にのまれ全滅してしまいました。また、神は荒野においてイスラエルの民を40年間マナという食べ物で養い、飲み水を与え彼らを助けました。民数記21章の出来事は、そのような厳しい荒野の生活の中で起きた出来事です。
民数記21章4節5節「彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、神とモーセに逆らって言った。『なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。』」「このみじめな食べ物」とは、神が彼らに毎日与えた「マナ」という食べ物の事です。彼らは、最初このマナを喜んで食べましたが、何日も続くうちに、この食べ物に飽き飽きして、マナのことを惨めな食べ物と呼び、神への感謝も無くなってしまいまったのです。6節「そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。」7節「民はモーセのところに来て言った。『私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちかから取り去ってくださるように主に祈ってください。』モーセは民のために祈った。」8節「すると主はモーセに言われた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる』」9節「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」とあります。男性だけで60万人という群衆が荒野で生活することは大変なことです。特に、イスラエルの民は食べ物と水のゆえに何度もモーセと神に不平不満を表しました。神は彼らの不信仰ゆえに「燃える蛇」を送られました。この燃える蛇によって多くのイスラエル人が死にました。イスラエルの民は自分たちの罪を認めてモーセに助けを求めました。モーセはイスラエルの民のために祈りました。すると、神は青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けるように命じました。また、かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きると言われました。モーセは神のことばに従い、青銅の蛇を作り、旗ざおの上に付けて掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたとあります。ここで大切な事は、彼らを救ったのがモーセの作った青銅の蛇なのか、青銅の蛇を仰ぎ見るなら生きると言われた、神の約束のことばなのかという事です。神は、この出来事を過越しの祭りのように、記念にするようには言っていません。しかし、彼らはこの青銅の蛇を大切に保管し、神のように崇め続けたのです。それを「ネフシュタン」と呼び、列王記第二に登場するヒゼキヤ王の時代まで続きました。イスラエルの民は、約690年の長きにわたって「青銅の蛇」に犠牲をささげ続けたのです。ヒゼキヤ王の宗教改革の時に、この青銅の蛇は他の偶像と共に砕かれて処分されました。
ヨハネの福音書3章に、イエスとパリサイ人ニコデモとの会話が記されています。議論の中心はどうすれば永遠のいのちを持つことが出来るか(天の御国に入ることが出来るか)ということです。イエスの説明を、この時のニコデモは理解できませんでした。そこでイエスはニコデモに言われました。12節~15節「わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」「人の子も上げられなければなりません」ということばには二つの意味があります。一つは、十字架の上に上げられる。もう一つは天に上げられるという意味です。もう一度、青銅の蛇の事を思い出してみましょう。燃える蛇にかまれた人が生きたのは、青銅の蛇に特別な力があったからでしょうか。それとも、青銅の蛇を仰ぎ見れば生きると言われた神のことば(約束)を信じ仰ぎ見たからでしょうか。答えは、神の約束を信じて青銅の蛇を仰ぎ見たからです。大切な事は、神のことばを信じることです。私たちがイエスの十字架によって救われるのは、私たちがイエス・キリストを神の子と証言する聖書(神のことば)を信じたからです。(イエスが私たちと同じ人間ならば、イエスが死んでも復活することなく、私たちの罪の身代わりにはなりません。)神は聖書のことばを通して、ご自身を明らかにしてくださいました。その神のことば聖書がイエス・キリストを神の子と証言し、十字架の死より三日目に復活して天に昇って行かれたと証言しています。また、イエス・キリストを神の子と信じるなら、罪が赦され天の御国に招かれると聖書は教えています。私たちクリスチャンは、神の約束を信じる者です。約束を信じるとは、約束をしてくださった神を信じるということです。約束で大事なことは、誰と約束するかということです。約束を守らない人との約束は、ないに等しい約束です。誰も信じません。しかし、私たちが信じる神は全能で義なる神です。いい加減な約束をしたり、守れないような約束をしたりするお方ではありません。私たち人間は、理解したら信じるという立場に立つ者です。しかし、神に創られた人間が、創り主である神を理解することは出来ません。また、私たち人間が理解できるような神は神とは言えません。神が私たちに求めているのは、私たちが神を理解することではなく、信じ、信頼することです。そのために、神は私たちに聖書を与え、教会を与えてくださいました。私たちは日々聖書を読み、祈り、礼拝をささげることによって、神への信頼を深めていくのです。