「イエス・キリストを誰と信じるか」 ヨハネの福音書11章21節~27節
今年のイースターは4月12日です。イースター礼拝を前に、イースターの意味と現在の私たちとの関係について学びたいと思います。
旧約聖書、新約聖書が私たちに伝える中心メッセージは「救い」です。「救い」とは何からの「救い」でしょうか。聖書が私たちに伝える「救い」とは、「私たちの罪からの救い」です。では、「罪」とは何でしょうか。最初に神様が創造された世界に「罪」は存在しませんでした。「罪」とは、神様が創造された、アダムとエバが神様の戒めを退け、サタンの言葉に従ったことから「罪」は生まれました。つまり「罪」とは、神様の戒めから離れた行為が「罪」であり、「罪」とは、新約聖書の言葉、ギリシャ語では、ハマルティヤという言葉が使われていますが、その意味は「的外れ」という意味があります。まさに、「罪」とは、神様の御心から外れた行為が「罪」と言われる行為なのです。
では、神様は何時、救いの計画を始められたのでしょうか。答えは、アダムとエバが罪を犯した直後です。創世記の3章15節に蛇(悪魔)に対する、神様の裁きの言葉ですが、このように書かれています。「わたしは敵意を、おまえ(悪魔)とおんな(イエス様)との間に置く。彼(イエス様)はおまえ(悪魔)の頭を打ち(死より復活する)、おまえ(悪魔)は彼(イエス様)のかかとを打つ(十字架で殺す)。」これを原始福音と呼びます。神様は、アダムとエバが罪を犯したすぐ後に、この救いの計画を始められたのです。と言ってもすぐに救い主が誕生されたわけではありません。神様はこの救いの計画が私たちに理解できるように長い時間をかけて準備してくださいました。その準備が旧約聖書の歴史です。それゆえ、旧約聖書は神様の救いの歴史と呼ぶことができます。神様は、ノアの洪水の出来事、神様とアブラハムとの契約、その子孫イスラエル民族との関係を通して、救い主について私たちに多くのことを伝えています。それゆえ、私たちは、旧約聖書、新約聖書を一冊の書物と考え、聖書全体が神様の言葉と信じているのです。
新約聖書の中心は、イエス様の誕生とイエス様の復活です。それゆえ、イエス様の誕生をクリスマスの日として祝い、イエス様の復活をイースターとしてお祝いします。また、福音書(マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書)のゴールは、イエス様の十字架の死と復活です。では、イエス様の十字架の死の出来事はどこから始まるのでしょうか。答えは、ラザロを死からよみがえらせるところから始まります。
ヨハネの福音書11章で、マルタとマリヤの弟ラザロが病気であることが、イエス様に知らされました。3節「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエス様はその知らせを受けてこのように言われました。4節「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」6節「しかし、イエス様はラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」とあります。イエス様がラザロの病を治そうとされるなら、ラザロのいるところに行かなくても、ラザロの病を治すことはできたことでしょう。しかし、イエス様はこのラザロの病の知らせを受けて、神様の時を見ておられました。イエス様はラザロの病気の知らせを受けて、神様の御心はラザロの病を治すことではなく、ラザロを死からよみがえらせること。そして、それにより十字架の死による救いの御計画がはじまることを知られたのです。それゆえ、イエス様は、あえてその場に二日とどまられたのです。実は、イエス様が言われた、「神の栄光のため」とは、ラザロを死からよみがえさせることではなく、イエス様が十字架に付けられ殺され三日目に復活することを指していたのです。
イエス様がマルタとマリヤの町に着いた時、ラザロはすでに死んで四日もたち、お墓に収められていました。実は、この四日という時間に意味があります。イエス様は以前にも、ナインのやもめの息子を生き返らせました。また、会堂管理者の娘を生き返らせるという奇跡をすでになさっています。しかし、今回、ラザロを死からよみがえらせると言う奇跡は、完全にラザロは病で死に、墓に葬られて四日もたっていました。それは、ラザロが死んで四日もたっている、ラザロの死がゆるぎない事実であることを示すために、死んで四日もたっているという事実が重要だったのです。
マルタはイエス様が来られたと聞いて、イエス様を出迎えに行きました。イエス様に出会ったマルタはイエス様に言いました。21節22節「主よ。もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」この言葉はマルタの信仰告白で、マルタがイエス様をどのように見ていたかがわかります。マルタは明らかにイエス様を救い主(神の子)ではなく、預言者としてみていました。それゆえ「あなたが神にお求めることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」と告白しているのです。イエス様はマルタに、ご自身が救い主(メシヤ)であることを知らせるためにこのように言われました。23節「あなたの兄弟はよみがえります。」イエス様はラザロがすぐに死からよみがえることを言われたのですが、マルタはまだイエス様のことばを理解できませんでした。マルタはイエス様に言いました。24節「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」ユダヤ教の教えの中に、終わりの日のよみがえりのことが教えられていました。マルタはそのことを思い出してイエス様にそのように言われたのです。イエス様はマルタの信仰を引き上げるためにこのように言われました。25節26節「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」マルタはイエス様に答えました。27節「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであることを信じております。」本当にマリヤはイエス様をキリスト(救い主)と信じることができたのでしょうか。39節でイエス様が「その石(墓石)を取り除けなさい。」と言われた時、マルタはこのように答えました。39節「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」マルタはイエス様を救い主と信じようとしても、十分にイエス様を信じることができませんでした。それゆえ、現実を見て、ラザロが死んで四日もたっているので、すでに臭くなっているでしょうと言ったのです。イエス様は、自分を疑う彼女に言われました。40節「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」この後、イエス様は父なる神に祈り、死んだラザロに呼びかけられました。するとラザロは包帯に巻かれたまま墓の中から出てきたのです。
今日の箇所で大切なメッセージは何でしょうか。それは「イエス様を誰と信じるか」と言うことです。マルタやマリヤ、弟子たちもイエス様を偉大な預言者、または、ユダヤの国をローマの支配から助け出す偉大な革命家と信じていました。しかし、そこには救いはありません。神様が私たちに提示された「救い」とは、神の子が人として生まれ、人の罪の身代わりとして十字架に付けられて死に、三日目に復活することでした。しかし、このことは人間の知恵で理解できることはできません。それは、イエス様を神の子と信じる信仰によって得られることだからです。また、それには神様の助けが必要です。イエス・キリストとは誰でしょうか。偉大な預言者でしょうか。キリスト教の創始者でしょうか。十字架に付けられ殺された哀れな人でしょうか。イエス・キリストは神の子です。その神の子が人として生まれ、十字架に付けられ殺されて、救いは完成されました。私たちが神様から頂いている「救い」とは、神の子のいのちがささげられた価値のあるものです。私たちはそれを神様よりただでいただきました。私たちはその恵みに対して何をお返しすることができるでしょうか。