「イエス様にナルドの香油を注いだマリア」 ヨハネの福音書12:1~8
先週は、ラザロが病で死に、墓に葬られ、4日もたたったラザロをよみがえらせたイエス様の姿から、イエス様が誰であるのかについて学びました。マルタを含め弟子たちや群衆は、イエス様のことを偉大な預言者、または、ユダヤの国をローマの支配から助け出す革命家と期待をしていました。しかし、イエス様は彼らが期待する者ではありませんでした。イエス様は、私たちの罪の問題を解決されるために、神が人としてお生まれになられたお方です。また、その救いの方法は、ご自分のいのちを十字架の上で犠牲にするという方法でした。私たちは、そのイエス様の十字架の犠牲(贖い)によって罪赦された者となったのです。
イエス様がラザロを死よりよみがえらせることによって、二つの大きな変化が生まれました。(1)イエス様が死んだラザロをよみがえらせたことを聞いて、祭司長やパリサイ人たちは、イエス様への危機感を強め、イエス様を殺さなければならないとまで、イエス様に対する憎悪が増大したことです。(2)死んだラザロをイエス様がよみがえらせたことを聞いて、群衆のイエス様に対する期待が膨れ上がりました。群衆はすぐにでもイエス様がローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国を独立させると期待したのです。
今日、お話しするヨハネの福音書12章の出来事は、先ほどのような、騒がしい中で行われたとても美しい出来事です。12章の1節「さて、イエスは過越しの祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえられたラザロがいた。」とあります。また、2節「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」とあります。この食事会は弟ラザロを死からよみがえらせていただいた、イエス様への感謝の集まりで、マルタとマリアの家でおこなわれたものと考えられます。この食事会の主役はラザロをよみがえらせたイエス様と、死よりよみがえったラザロでした。3節「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(328グラム)取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」とあります。「ナルド」は植物の名前で、このナルドから香油が作られました。特に、ナルドから作られた香油はにおいが強く、体臭を消すために化粧品などとして使われていました。また、においが強いために、埋葬時の腐敗のにおいを消すためにも使われました。この時、マリアが使った香油がどれほど高価なものであったかは、弟子たちのお金を預かっていたイスカリオテのユダがこのように証言しています。5節「どうして、この香油を三百デナリ(三百日分の労働賃金)で売って、貧しい人々に施さなかったのか。」イエス様の弟子のイスカリオテのユダは、マリアの行為をもったいないと非難したのです。それに対してイエス様はこのように言われました。7節「そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」はたして、この香油はイエス様が言われるように、マリアがイエス様の葬りの準備のために残しておいたものでしょうか。そうではないと思います。この香油は女性であるマリアが自分が持っている物の中で一番高価な物で、一番大切にしていたものではないでしょうか。マリアはその一番大切なものを、弟ラザロを死より取り戻してくださったことへの感謝の気持ちとして、イエス様に注ぎかけたのではないでしょうか。イエス様もそれがわかっているから、マリアが注ぎかけた香油がむだな物ではなく、これから死に向かっていくイエス様は、その香油を埋葬のための香油として受け取られたと言うことです。
この美しい出来事から私たちは何を学ぶでしょうか。(1)マリアの感謝の気持ち。マリアにとって弟ラザロはただ一人の弟です。そのラザロが病で死んだ。マリアはどれほど失望し悲しんだことでしょうか。死は、この地上での永遠の別れです。マリアは失意のどん底にありました。そのマリアの悲しみを喜びに変えたのが、ラザロのよみがえりです。人の命はお金に勝るものです。マリアはどれほどイエス様に感謝したことでしょう。その気持ちの表れが、高価なナルドの香油をイエス様の足に塗るという行為になったのです。(2)私たちの感謝の気持ち。イエス様はこの後、祭司長たちに捕らえられ、裁判にかけられ、死刑の判決を受けられました。また、その後、十字架を担いで、ゴルゴタの丘で十字架に付けられ殺されてしまいました。いくらイエス様が神の子であっても、人として生まれた以上、私たちと同じ肉体を持たれました。イエス様が十字架に釘で打ち付けられた時、どれほどの痛みを受けられたのでしょうか。それを考えると涙が出てきます。以前、自分の罪がわからなかった頃、聖書のこの箇所を読んでも、何の感動もありませんでした。二千年前に十字架に付けられて殺されたイエス・キリスト。そこには、現代に住む私と二千年前のイエス様とは何の関係もありませんでした。しかし、礼拝に出席するようになり、聖書を学ぶうちに、自分の罪の大きさが少しづつわかるようになりました。そして、イエス・キリストの十字架の死は、イエス様の失敗や不運ではなく、自分の罪の身代わりであることが分かった時、はじめて、二千年前のイエス様と現代の自分との接点を見出したのです。その時、イエス様に対して、どれほど大きな感謝の気持ちが生まれたことでしょうか。それは、この時のマリアと同じぐらいかもしれません。それこそ、お金では表せないほどの感謝の気持ちです。マリアは自分のもっている一番大事なものをイエス様にささげました。私は自分の将来、人生をイエス様にささげました。(それは、神様に自分が牧師になるように召されたからです。)皆さんは、イエス様にどれほどの感謝の気持ちがあるでしょうか。また、それをどのような形で表しているでしょうか。一人ひとり神様が私たちに求めておられることには違いがあるでしょう。大切なことは、イエス様は私たちのために、ご自分のいのちをささげてくださいました。また、イエス様は私たちが喜んでささげる物を、喜んで受け取ってくださり、ご自分の栄光のために用いてくださるということです。