「ゲッセマネの祈り」 マタイの福音書26章36節~46節
イースターを前に、イエス様の十字架への歩みを学んでいます。(1)ラザロを死よりよみがえらせた出来事。(2)イエス様の御足に香油を塗ったマリヤ。今日は、イエス様が捕らえられる前に、父なる神に祈ったゲッセマネの祈りから学びます。
イエス様が病気で死んだラザロを生き返らせることによって、イエス様の人気は最高潮に達し、イエス様がエルサレムに入る時には、多くの人々が王様を迎えるように大喜びでイエス様を迎えました。その後、イエス様は弟子たちと最後の晩餐の時を持ちました。今日の個所は、その晩餐の後、イエス様が、祈るためにゲッセマネの園に出かけた場面です。イエス様は弟子の中からペテロとヤコブとヨハネを選び、さらに奥に進んでいきました。イエス様はこの三人に、今の自分の気持ちを正直に話されました。38節「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」イエス様の死ぬほどの悲しみとは何でしょうか。もちろん、十字架に付けられて殺されるという肉体の苦しみもあったことでしょう。しかし、それだけではなく、十字架に付けられて殺されるということは、犯罪人として殺されるということです。また、それは本人だけではなく、家族すべてに汚名を着せることになります。また、自分が十字架に付けられて殺されることによって、弟子たちにも汚名を着せることになります。そしてそれは、今まで築いてきたこと全てを台無しにすることになります。だれが、十字架に付けられて殺された犯罪人の教えを信じる者がいるでしょうか。パリサイ人律法学者たちと祭司たちの狙いは、イエス様のいのちだけではなく、イエス様の教え自体も葬ることにありました。そのためには、イエス様を十字架に付けて殺すことが一番でした。それゆえ、彼らは、急いで裁判を開き、死刑の判決を下し、ローマ総督ピラトの許可を受けて、イエス様を十字架に付けて殺してしまったのです。
さらにイエス様は進んで、このように祈られました。39節「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」ここでイエス様が言われた「杯」とは十字架での死を意味しています。イエス様の願は十字架の死ではなく、他の方法で神様の栄光を現すことでした。しかし、イエス様の祈りの最後は、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈っています。この最後のことばを付けるか付けないかが、キリスト教の祈りと他の宗教の祈りとの大きな違いになります。人間中心のご利益宗教は、熱心な祈りによって、自分の願い通りに神様を動かそうと努力します。また、自分の思い通りいかなければ、他の神々を捜し、自分の都合の良い神様を選びます。しかし、キリスト教の祈りは、自分の願い通りに神様を動かすのではなく、神様の御心に自分自身を喜んで従わせることです。イエス様の二度目の祈りはこうです。42節「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりにをなさってください。」また、イエス様は同じような祈りをもう一度、祈られたとあります。イエス様はこの三度の祈りを通して、神様の御心が、自分が十字架で死ぬことであることを確信し、自ら十字架の道を選び、この後、抵抗することなく、兵隊にご自分の体を差し出されたのです。
以前、宣教師の方から聞いたお話ですが、アメリカのアライアンスの教会で宣教大会が開かれ、その教会でも宣教師を送ろうと熱心に祈り始めたときのことです。ご主人を亡くして、娘と二人で暮らしをしていた女性に、神様は祈りの中で彼女に語りかけました。「あなたの娘を私のために宣教師として送り出しなさい。」彼女はびっくりして「神様、それはできません。」と答えました。しかし、祈りのたびに神様のことばが彼女に迫ってきました。彼女はその度に、「私には娘が一人しかいません。神様はそれを取り上げられるのですか。」と祈ったそうです。しかし、そのうちに彼女は祈れなくなってしまいました。しかし、彼女は何か月かの葛藤の結果、「神様に娘をお渡しします。」と祈れるようになったそうです。神様は彼女の娘にも語りかけていました。彼女も祈りの中で献身して宣教師になるように示されていたのです。しかし、彼女は、お母さんのことを考えると、どうしても神様のことばに喜んで従うことができませんでした。しかし、最後は彼女も「神様にゆだねます。」と祈れるようになりました。それから彼女は勇気を出してお母さんに献身して宣教師になることを告げました。彼女はお母さんに反対されるのを覚悟して話したのですが、お母さんは喜んで受け入れ、神学校へ行くことを喜んで許可してくださったそうです。その後、彼女は神学校で、同じビジョンを持つ男性と結婚し、宣教師として外国に旅立ちました。その後、子ども生まれ、彼女のお母さんは、毎月送られてくる宣教レポートと写真を見ながら、毎日、娘の家族のために祈るようになったそうです。
祈りとは何でしょうか。祈りとは、自分の願を神様に押し付けることではありません。それどころか、自分自身を神様の御心に従わせるために祈りはあります。私たちは、明日の事も、その先の事も何が起こるのか知らない者です。しかし、神様は全てをご存じで、私たちに必要な物を与えてくださるお方です。試練や苦しみにも意味があります。初めは喜べないこともあります。しかし、後になって振り返った時に、やはり、神様の御心が一番であることがわかります。これは、神様への信頼があってはじめてなされることです。イエス様が十字架の死を受け入れなければ、私たちの救いは完成されませんでした。イエス様は十字架の道を避けて、ユダヤ人の王にも成れたお方です。しかし、イエス様は、自ら惨めな最後を受け入れることによって、復活という神様の栄光を現し天に昇って行かれたのです。私たちの人生も神様の御手の中にありす。時には苦しみのゆえに神様の愛を疑ることがありますが、神様は決してご自分を信じる者を捨て去ることはありません。苦しみには意味があります。その先に希望があります。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブの手紙1章12節)「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)神様は私たちを罪の中から助けるためにひとり子イエス様を犠牲にされたお方です。また、イエス様はご自分の命を犠牲にされて、私たちを罪の中から助け出してくださったお方です。そんな神様が意味もなく私たちを苦しめるわけがありません。神様は死も病もすべてを恵みに変えてくださる神様なのです。