ヨハネの福音書12章1節~7節
1、マリアの献身
イエス・キリストが十字架に付けられ殺される前に、マリアが高価な香油をイエスに注ぎかけた出来事は有名です。ヨハネの福音書12章1節「さて、イエスは過越しの祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。」とあります。ヨハネの福音書11章に死んで墓に納められ、四日たった、ラザロをイエス・キリストが、よみがえらせた出来事が記されています。マルタとマリアは姉妹、ラザロは二人の弟でした。2節「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」とあります。ルカの福音書10章38節~42節に、マルタがイエスを家に招いて食卓の準備をしている場面が描かれています。この時、すでに両親は亡くなり、マルタが一家の主人としてイエスを招き、食卓の準備を行ったものと考えられます。この時、マルタは食卓の準備を手伝わないマリアに対して不満を抱き、イエスに妹に手伝うように言ってくださいと、イエスに対しても不満をぶつけました。イエスはマルタを批判することはありませんでしたが、マリアがイエスの話しに耳を傾けていることを、取り上げてはいけないとマルタを優しく諭しています。そんなことがあって、ヨハネの福音書12章では、マルタは喜んでイエスを招き、イエスのために食卓を整えていたのではないでしょうか。
3節「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(328グラム)取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、家は香油の香りでいっぱいになった。」とあります。ともに食卓に着いていた人々は驚いた事でしょう。イスカリオテのユダはこの香油が三百デナリもの高価な香油であることを見抜いていました。当時、一デナリが一日の労働賃金と言われていました。そこで三百デナリとは、三百日の労働賃金、金額にすると三百万円ほどの価値が考えられます。マリアはなぜ、こんなにも高価な香油をイエスの足に塗って髪でぬぐいはじめたのでしょうか。考えられることは、一度死んだ弟のラザロをよみがえらせていただいた感謝の気持ちではないでしょうか。マリアにとって弟のラザロは大切な家族です。そのラザロを一度は病で失いましたが、イエスによってマリアはもう一度ラザロを取り戻すことが出来たのです。彼女の喜びはどれ程大きかったことでしょう。そこで彼女は、自分が持っている物の中で、一番高価な物をイエスにささげたいと考えたのではないでしょうか。彼女にとって一番高価なものは香油でした。彼女はイエスに一番大切な香油を注ぎかけることによって、自分の喜びと感謝を表したのです。しかし、イエス・キリストは、マリアのこの行為をさらに高め、7節「イエスは言われた。『そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。』」と言われたのです。イエスは以前から弟子たちに自分の死について伝えていました。しかし、弟子たちはだれもその意味を理解することは出来ませんでした。この後、イエスは祭司たちに捕らえられ、裁判に掛けられ死刑の判決を受けます。彼らはローマ総督の所にイエスを連れて行き、十字架に付けて殺す許可を得て、イエスを殺してしまいました。イエスは十字架に付けられて殺される前に、マリアによって香油が塗られたことを埋葬に準備として喜んで受け取られたのです。
2、イスカリオテのユダの裏切り
マリアがイエスの足に高価な香油を注ぎかけたとき、彼はマリアを非難しました。4節5節「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。『どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」ヨハネの福音書の著者使徒ヨハネは彼の行為をこのように説明しています。6節「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」とあります。イスカリオテのユダがイエス・キリストを裏切った理由はいくつか考えられます。しかし、本当の所ははっきり聖書に記されていません。ただ、彼がお金に執着していたことは確かなことです。彼がイエスの弟子になったのも、イエスがユダヤを治める王になった時、自分も高い地位に就きたいとの野心だったでしょう。その事は他の弟子たちにも当てはまる事実です。しかし、彼が他の弟子たちと違ったのは、イエス・キリストに失望したということです。イスカリオテのユダはイエスがエルサレムに入ると、人々を従えてローマの兵隊を追い出し、自ら王になることを宣言するのではと期待していたのではないでしょうか。実際にイエスにはその力があったと考えられます。しかし、イエスは一切そのような行動を起こしませんでした。イスカリオテのユダは、イエスが捕らえられるなら、その力でローマの兵隊を追い出すと考えたのかもしれません。しかし、結果は、イエスは捕らえられ裁判に掛けられ、十字架に付けられて殺されてしまいました。彼は自責の念で金貨を祭司長に返しますが、自ら首を吊って死んでしまいました。
マタイの福音書6章19節から21節でイエスはこのように言われました。19節~21節「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」「天に蓄えられる宝」とは色々なことが考えられます。マリアがイエスにささげた香油こそ天に蓄えられる宝ではないでしょうか。新興宗教では神から祝福を得ることを第一と考えます。弟子たちもイスカリオテのユダもイエスに仕えることによって高い地位を求めました。しかし、聖書は私たちにささげる喜びを教えています。その根底にあるのは神との愛の関係です。愛する者に自分の大切な物をプレゼントすることは喜びです。神自ら一番大切なひとり子イエス・キリストをささげて下さいました。マリアは自分の持ち物で一番高価な香油をイエス・キリストにささげました。私たちは神の愛に対して何をささげるべきでしょうか。