「岩の上に建てられた家」 マタイの福音書7章15節~29節
マタイの福音書5章から、イエス様が山の上から弟子たちに、または、群衆に対して語られた山上の説教から学んできました。今日はその最後、結論の部分から学びたいと思います。イエス様が説教をされた時代、ユダヤの国はユダヤ教が確立し、律法学者と言う、聖書の専門家が宗教指導者として大きな力を持っていました。しかし、彼らの働きは、神様が与えてくださった戒めをさらに膨れ上がらせて、人々を縛り、窮屈な教えに変えてしまったのです。イエス様の働き(説教)は、そのような膨大に膨れ上がった戒めを、神様の戒めと人間の戒めとを区別することでした。そのため、律法学者たちは、イエス様を敵対視し、結局、自分たちの教えを守るために、神様が遣わしてくださった神の子イエス様を十字架に付けて殺してしまったのです。
1、 にせ預言者の姿(マタイの福音書7章15節~23節)
イスラエルの国において、預言者とは、未来を予測する者ではなく、神様のことばを預かり、それを人々に伝えるのが預言者の働きでした。旧約聖書の時代にも、にせ預言者はたくさんいました。彼らは、神様からことばを預かりもしないのに、神からのことばとして、勝手に自分の思いを神様のことばとして説教していたのです。イエス様がここで「にせ預言者」と言っているのは、律法学者パリサイ人たちのことを指しているのではないかと思います。彼らは「羊のなり」をしているとあります。見た目はおとなしく敬虔に見えますが、中身は「貪欲な狼です。」とあります。律法学者たちは、旧約聖書を研究し、人々に守るように指導していました。それゆえ、人々から先生、先生と呼ばれ、尊敬されていました。しかし、彼らの姿は、人から褒められるための、人に見せるための信仰でした。しかも、律法を守れない、羊飼いや貧しい人々を、「罪人」と呼び、彼らをさげすみ、憐れもうともしなかったのです。
イエス様は16節で「実によって彼らを見分けることができます。」と言われました。また、その実と言うのは、良い木か悪い木で、良い実と悪い実に分かれると教えています。7節「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」と言われました。ここでイエス様が言われた「良い木、悪い木」と言うのは、私たちの動機を表しています。私たちが良い動機で物事を行えば、良い実を結びます。しかし、私たちが悪い動機で行えば、悪い実が結ぶということです。律法学者たちの祈り、施し、断食は、人に見せるためでした。結局、彼らは、人からの称賛は受けるために、祈り、断食し、施しをしていたのです。その動機は、人に褒められるためでした。それゆえ、神様からの栄誉は受けることができないとイエス様は言われたのです。結局、彼らは、イエス様を偏見と悪い動機でイエス様を見ていたために、イエス様が真の神の子であることに気が付かずに、イエス様を神を冒瀆した罪で、十字架に付けて殺してしまったのです。まさに、彼らは、神様からの戒めを、自分たちの思いで、間違って民衆に教えたがために、人を苦しめる、にせ預言者となってしまったのです。
また、イエス様は21節で「わたしにむかって、『主よ。主よ』言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。律法学者たちは、自分たちが律法(神様の教え)を守っているので、天の御国に入ることができると信じていました。しかし、イエス様はそうではないと言われました。22節「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』23節「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れていけ。』」結局、彼らは律法(旧約聖書)を研究しても、自分勝手に解釈し、間違って理解したために、神様の目には、不法を行う者となり、神様から退けられる者になってしまったのです。
では、どのような人が天の御国に入るのでしょうか。イエス様は21節で「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。つまりそれは、神様のことばを聞いて終わりではなく、行う者と言うことです。そして、その父のみこころを行うということが、次の24節からある、「岩の上に家を建てた賢い人」と言うことです。
2、 岩の家に建てられた家と砂の受けに建てられた家(24節~29節)
24節からのこのたとえ話は、5章から語られたイエス様の説教の結論の部分に当たります。24節「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、」「これらのことばと」は、5章からイエス様が語られた全てのことばを指しています。大切なことは、聞いて終わりではなく、「聞いてそれを行う者は」と言うことです。このたとえ話で大切なことは、何の上に家を建てたかです。「岩の上か砂の上か」です。では、ここでイエス様が言われた、「岩」とか「砂」は何を指しているのでしょうか。また、もう一つ「洪水」とは、何を指しているのでしょうか。ここで言われている「岩」とか「砂」は、私たちがより頼んでいる拠り所のことです。そして、「洪水」とは、人生の危機(病気、事故、災害など)命に係わる危機的状況を指します。死や命の危機を迎えた時に、私たちはどのように、それに耐えることができるかということです。「岩」とは神様のことを指しています。「砂」とは、自分自身、財産、健康、仕事、家族。私たちはそのようなものを頼りに日々、生活しています。しかし、そのようなものが、死や命の危険の時、どのような支えになるでしょうか。家族や友人は確かに、こころの支え、助けと慰めになります。しかし、死については何の助けにもなりません。死に対して私たちは、神と一対一で対面しなければなりません。そのような危機的な状況で、私たちはどのような神々、仏様に助けを求めるのでしょうか。イエス・キリストがお生まれになられた目的は、私たちを罪から救うためだと聖書にあります。イエスとは「救い」という意味の名です。また、イエス・キリストは、歴史の事実として、十字架に付けられて殺されました。聖書を読むなら、イエス様はいつでも逃げることは出来たし、イエス様の力からすれば、世界を征服することも出来たでしょう。しかし、イエス様は自ら十字架の上でいのちを犠牲にされました。それは、私たちの罪の身代わりの死であると聖書に記されています。世界中にたくさんの宗教、神々が信じられていますが、この罪の問題を解決した宗教、神々は、イエス・キリスト以外、存在していません。ユダヤ人たちはなぜ、あれほど神様に熱心であったのに、イエス様を神の子と信じることができなかったのでしょう。ユダヤ人にとって、神様は偉大なお方です。その偉大な神が人として生まれるなど信じることができませんでした。ましてや、人の罪の身代わりとして、神の子が十字架に付けられて殺されるなど信じることが出来ない出来事だったのです。日本では、なぜ、キリスト教が広まりにくいのでしょうか。色々な原因がありますが、日本人はまじめな国民ゆえに、ただで天国に行けるとか、何も努力せずに天国に行けるという教えを素直に受け取ることが出来ません。日本人は努力した結果として、天国を自分のものとするという考えの方がわかりやすいようです。なぜなら、そこには、満足感と達成感があるからです。日本人は努力して得る物に価値を見るからです。しかし、キリスト教は、健全な人、努力家の人だけではなく、こどもや病人、老人まで、万民を救うための教えです。それゆえ、神様は人間の努力ではなく、信仰(神への信頼)によって救われる道を備えられたのです。この救いに、あなたの罪も含まれています。それでも、あなたは、自分自身や財産、目に見える物の上に家を建てる者のでしょうか。それても、それほどまでに私たちを愛し、ご自分のいのちを犠牲にされた、神様の上に家を建てる者でしょうか。私たちはこの決断を生きてる間に決めなければならないのです。