「幸いな人とはどのような人か」 マタイの福音書5章1節~12節
今日から、イエス様が山の上から群衆に話された山上の説教を学びます。イエス様が宣教の働きを始められた時、キリスト教と言う言葉もなく、人々はイエス様の働きをユダヤ教の一宗派と考えていました。キリスト教がユダヤ教から分離して考えられるようになったのは、使徒の働きの中で、パウロが異邦人伝道をはじめた頃からです。それゆえ、これから学ぶ、山上の説教は、イエス様が弟子たちに、また、群衆に話された、キリスト教の土台、キリスト教の根本となる教えです。特に、イエス様が意識されたことは、律法学者たちとの律法(旧約聖書)の理解(解釈)の違いです。イエス様は決して旧約聖書を否定されたわけではありません。成就(完成)するために来たと言われました。これから、山上の説教を通して、律法学者たちの律法の理解の間違いを学び、律法(旧約聖書)の正しい用い方をイエス様の教えから学びます。
1、幸いな人の姿
マタイの福音書5章の3節に有名な「心の貧しい者は幸いです。」という言葉があります。私が初めて聖書を読んだ時、この言葉を読んで驚きました。なぜ、心が貧しい者が幸いと言えるのだろうか。その理由を理解することができませんでした。そこで、ある時、先輩のクリスチャンの人にそのことを質問しました。すると彼はこのように教えてくださいました。「心の貧しい」とは、「心が空っぽの状態」を指している。世の中には、私たちの心を満たす物で満ち溢れています。お金、名誉、権威、快楽、遊興(楽しみ)そのような、この世の物で心が満たされない人のことだということです。そして、心の貧しい人が得る恵みは何か、それは「天の御国」です。この世の物で心を満たしている人にとって、神様の話、天国の話は興味がありません。しかし、この世の物で、心が満たされていない人、この世の物が空しいことを知っている人こそ、神様の話に耳を傾け、天の御国を自分のものにすることができる人です。それゆえ、その人こそ、本当に幸いな者だと、イエス様は人々に教えられたのです。
「幸い」とは何でしょうか。「幸せ」とは何でしょうか。私は中学校の頃、「幸いとは何か」と言うことを真剣に考えたことがあります。幸いな人生とは、お金を儲けることなのか、成功して人々からうらやましがられる人生のことなのか。また、健康な事なのか。家族に恵まれることなのか。どれを考えても結論を出すことができませんでした。そこで、この世の中には幸いな人生など無い、そんなことを考えたり、求めたりすること自体が無意味なことだと思いました。幸いを定義することは出来ません。しかし、今、自分が幸いかどうかを決めることは出来ます。幸いか、不幸かは、個人の感じ方によるからです。ある目の見えない方が言われました。「僕は目が見えないので、不便であるが不幸ではない。」確かに、目が見えないことが、すぐに不幸に繋がるわけではありません。不幸は目が見えていても、見えなくても、その人の考え方で、不幸にも幸いにもなります。
イエス様はマタイの福音書5章で、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和を作る者」「義のために迫害されている者」の八つをあげました。この中で、「心の貧しい者」「悲しむ者」「義のために迫害されている者」はどう見ても、私たちの感覚からすると、幸いな人の姿に見えません。イエス様はどうしてこの八つの人々を幸いな人と呼んだのでしょうか。
2、幸いな人が受ける恵み
では、幸いな人が受ける恵みについて考えましょう。3節「天の御国」4節「慰められる」5節「地を受け継ぐ」6節「満ち足りる」7節「あわれみを受ける」8節「神を見る」9節「神の子と呼ばれる」10節「天の御国」この八つの項目の中で、神様と関係している言葉は、「天の御国」が二つ。そして、「神を見る」「神の子と呼ばれる」の合わせて四つがあります。また、5節の「地を受け継ぐ」と言うのも、この地上の土地ではなく、「天の御国の土地」と考えるなら、神様との関係が五つになります。4節の「悲しむ者」が自分の罪に苦しみ悲しむ者であるなら、その悲しみはイエス様によってのみ慰められます。また、6節の「義に飢え渇く者」は、神の義を知ることによって「満ち足りる」のではないでしょうか。7節の「あわれみ深い者」もイエス様に出会って「あわれみを受ける者」になります。そう考えると、イエス様が幸いだと言われた、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和を作る者」「義のために迫害されている者」とは、神様と出会いやすい心の状態を指していると言えます。まとめると、イエス様が群衆に言わんとしたことは、神様と出会った人こそ幸いな人であり、幸いな人生だということです。この事は、旧約聖書とも一致します。詩篇の1篇1節から3節「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあります。「水路のそば」とは神様を表しています。私たちが神様のそばに根を張れば、その人は何をしても栄えるということです。
私たちは周りの状況に影響されて、幸いではなく不幸を感じます。お金がない、仕事に恵まれない、病気、願った人生を歩めないなど。しかし、イエス様はそれでも、あなたは幸いな人ですと声をかけてくださいます。なぜなら、わたし(イエス様)が共にいるからです。私たちの最大の苦しみは死です。しかし、私たちは死さえも恐れません。なぜなら、死は終わりではないことを知っているからです。私たちにとって死の向こう側に、天の御国があります。それゆえ、死は終わりではなく、天国への旅立ちです。神を知る。神が共におられるとはそういうことです。これ以上の幸いがあるでしょうか。今私たちに、苦しみがあり、病があり問題があっても、あなたは幸いな人です。なぜなら、苦しみがあっても、問題があっても、神様が共におられるからです。旧約聖書のヨセフは兄弟たちに恨まれ、エジプトに奴隷として売られてしまいました。しかし、神様がヨセフと共におられたので、ヨセフは主人に認められる者となりました。しかし、主人の奥さんの悪意により、ヨセフは監獄へと入れられてしまいました。しかし、そこでも神様が共におられたので、ヨセフは監獄の長に認められる者となりました。そこで、ヨセフは、エジプトの王様の調理官長と献酌官長の夢を解き証しました。後にそのことを通して、エジプトの王の夢を解き明かし、ヨセフは、エジプトの総理大臣に任命されたのです。神様が共におられるとは、苦しみや悲しみの無い人生を過ごすという意味ではありません。神様が共におられても、病や苦しみ、死さえ訪れます。しかし、それでも、神様は共におられて、私たちを守り、万事を益に変えてくださいます。それゆえ、イエス様は、私たちのことを「あなたは幸いな人です。」と言ってくださるのです。