「律法学者の義とキリスト者の義」 マタイの福音書5章13節~20節
先週は、イエス様が群衆にお話になられた、幸いな人の姿について学びました。「心の貧しい者」「悲しむ者」「義のために迫害されている者」などは、この世の考えでは、幸いな人には見えません。しかし、そのような人たちこそ、神様を求める心が与えられ、神様によって天の御国が与えられる人です。ですから、そのような人たちこそ、本当に幸いな人だと、イエス様は、今、自分の周りに集まり、神様のことばに耳を傾けている人々にお話になられたのです。言うならば、神様の話に耳を傾けている、あなたがたこそ幸いな人ですと、イエス様は群衆に言われたのです。
神様は六日間で天地全てを創造され、地上を管理する者として、人を造られました。しかし、そこで、私たちの先祖アダムとエバは罪を犯し、エデンの園から追い出されてしまいました。そして、二人の子孫は神様から離れ、自分たちに都合の良い世界を作り上げてしまいました。神様がその世界を見られた時、あまりにも悪が増大しているのを見て、神は、この地上を洪水で滅ぼす決心をされたとあります。しかし、ノアだけは神様の御心にかない、神様はノアに大きな箱舟を作るように命じられました。箱舟が完成すると、洪水が起こり、地上の全ての生き物は滅ぼされてしまいました。神は、ノアの家族に箱舟を作らせ彼らを洪水から助け出し、もう一度この地上をやり直そうとされたのです。しかし、ノアの子孫も神様から離れ、同じように地上がまた、悪で満ちてしまいました。そこで今度は、神様はアブラハムを選び、彼の子孫によって救いの計画を始められたのです。神様はアブラハムの子孫イスラエルの民に、モーセを通して、神様の戒めを与え、礼拝のし方を教えられました。しかし、イスラエルの民が神様を捨て、偶像礼拝を止めなかったがゆえに、神様は、バビロニヤによって、イスラエルの国を滅ぼしてしまわれました。しかし、70年後に国を再建することが許され、彼らは、神殿を再建し、国を立て直しました。しかし、彼らの礼拝は形だけとなり、その後、その国もローマによって支配されるようになりました。捕囚後、イスラエルの民の礼拝は、会堂礼拝が中心となり、彼らは旧約聖書を学び、神様のことばに従って生きるようになりました。そして、生まれたのが律法学者と呼ばれる、ユダヤ教の指導者たちです。彼らは、神様の戒めを守るために、さらに膨大な自分たちの戒めを作りました。それによって、イスラエルの民は生活が縛られ、神の戒めを守るために、さらに苦しめられる結果となってしまったのです。イエス様が誕生されたのはそのような時代でした。
1、神によって救いの恵みが与えられた者の姿(マタイの福音書5章13節~16節)
神様を求める者に神様は救いの恵み(天の御国)をただで与えてくださいます。しかし、神様の願いは、私たち一人一人が救われるだけではなく、私たち(救われた者)を通して、さらに多くの者が救われることです。私たちは神様に救われ、新しい神の民として生まれました。それは、この世の民から切り離され、新しい民として生きることを意味しています。13節から16節にある、塩のたとえと、山の上の町、燭台の話は同じことを教えています。塩の働きは、味を高めることと、腐敗を防ぐことにあります。当時の塩は「岩塩」から塩を取っていました。それゆえ、塩気を失くした岩塩はただの岩となり、外に捨てられ、人に踏みつけられるだけになってしまいます。私たちも、神様を信じていると言いながら、神様を否定するような生き方をしていたとするなら、塩気を失くした岩塩と同じように、キリスト者としての目的を失い、外に捨てられ、足で踏みつけにされる存在となるということです。山の上にある町も、光に照らされるため隠れることができません。同じように、新しく生まれた、私たちの生活も、神様の恵みに照らされ、隠れることは出来ないのです。また、明かりは回りを照らすためにあります。それゆえ、周りを照らすために燭台の上にロウソクをおおきます、しかし、そのロウソクを枡の下置くならば、周りを照らすこともできず、あかりの役目をはたすことができません。私たちが新しく生まれたのは、自分が救われるためだけではありません。私たちの新しい生活を見て、私たちの周りの人々が救われるためです。また、私たちの良い行いを見て、天の神様の御名が崇められるためなのです。
2、律法学者とイエス様の教え(17節~20節)
イエス様と律法学者たちの対立は、律法の守り方のちがいによるものでした。律法学者たちは律法(旧約聖書)の一字一句を正確に書き取り、それを守るようにユダヤ人に強制しました。イエス様は旧約聖書の教え自体を否定したわけではなりません。律法学者たちの律法の守り方を批判したのです。また、イエス様は17節で「わたしが来たのは律法や法預言者(旧約聖書全体)を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就(完成)するために来たのです。」といわれました。イエス様が十字架に付けられて殺されたのは、律法学者たちが、イエス様が律法を守らないで、律法を否定するように人々に教えていると思ったからです。イエス様が言われた「律法の成就(完成)」とは、イエス様の十字架の死と復活を意味しています。神様はモーセを通して、神様の戒めを与えられましたが、人間は罪があるため、完全に神様の戒めを守ることができませんでした。それゆえ、神様は私たちの罪の問題を可決するために、イエス様を人として、この世に誕生させ、十字架の上でいのちを取られたのです。しかし、イエス様は罪の無い、神の子でしたから、死より三日目に復活して天の父のもとに昇って行かれました。そして、私たちがイエス様を神の子と信じる信仰によって救われる道を完成してくださったのです。しかしイエス様は20節で、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」と言われました。その意味は、私たちの生活が、律法学者やパリサイ人たちの生活よりも、罪深い生活をするならば、いくらイエス様を信じていても、行いのにおいて、神様を否定する者となり天の御国に入ることは出来ないと言われたのです。
私たちは救われて終わりではありません。神様によって救われた私たちには、神様からの使命があります。それは、私たちの生活を通して、神様の栄光を表すということです。律法学者パリサイ人たちは、神様の戒めを守ることによって、自分が義とされることを求めました。しかし、それゆえに彼らは、神様の教えから遠く離れてしまったのです。イエス様は彼らの間違いを教えようとしましたが、彼らは、イエス様を恐れ、自分たちの教えを守るためにイエス様を十字架に付けて殺してしまったのです。律法(旧約聖書)は悪い物ではありません。しかし、律法学者たちは律法の守り方を間違ったために、律法を悪い物に変えてしまいました。聖書は、私たちに救いの道だけではなく、良い行いも備えてくださいますとあります。私たちの目的は、律法学者たちとは違い、自分を正しい者にすることではありません。私たちは罪人であり、完全な義を持つことは出来ません。しかし、神様はイエス様を通して神の義を表してくださいました。私たちはその神の義の道を歩むことによって、父なる神様の栄光を表すことができるのです。それは、月が太陽の光を反射して、美しい姿を表すのに似ています。私たちの願いは、神の愛を受け、その愛を反射し、人々に神様の素晴らしい愛を伝えることです。それこそが、自分を義とすることではなく、神の義、神の国を求めることなのです。