「復活したイエス様と出会う」

「復活したイエス様と出会う」 ルカの福音書24章13節~33節

先週はイースターで、イエス様の復活と現代に生きる私たちとの関係についてお話しました。また、私たちが神様から頂いている「救い」というものがどんなに尊いものであるかを説明いたしました。今日は、二千年前に復活されたイエス様と、今生きる私たちがどのようにして出会えるのかについてお話します。

ルカの福音書24章13節から33節の箇所は、「エマオ途上」と呼ばれる有名な箇所で、何人もの画家によって描かれた美しい場面です。ここに二人の弟子が登場します。その一人の名はクレオパと呼ばれています。二人は弟子たちが集まっていたエルサレムを離れ、六十スタディオン(11キロ)離れたエマオという村に向かっていました。二人はなぜ、エルサレムを離れ、エマオという村に向かったのでしょうか。その理由は聖書には書かれてありません。想像すると、弟子の群れから離れて行くところをみると、イエス様が殺され、失望して、弟子たちの群れから去っていこうとしたのではないかと考えられます。二人は道々、イエス様が十字架に付けられて、殺されたことについて話し合っていました。その二人にイエス様が近づいて来られました。しかし、二人にとってイエス様は十字架に付けられて殺された過去の人物です。また、望みをかけていたイエス様の死という大きな失望のゆえに、その人がイエス様であることに気が付きませんでした。聖書には「二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」とあります。イエス様は二人に語り掛けました。17節「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」「すると二人は暗い顔をして立ち止まった。」とあります。エルサレムでのあれほど大きな出来事を知らないとは、二人は不思議に思ったのでしょう。そこで二人はイエス様にエルサレムで起こったことを説明しました。19節~24節「ナザレ人イエス様のことです。・・・・」ここで二人は、イエス様が祭司長たちに捕らえられ、死刑の判決を受け、十字架に付けられて殺されたこと。また、三日目にイエス様の体が墓から消えたことなどを伝えました。それを聞いてイエス様は二人に言われました。25節26節「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことのすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それから、イエス様は二人に、聖書(旧約聖書)全体からご自身について書かれてあることについて説明されたとあります。ここで目的の村に近づいた二人は、この村に一泊することを提案しました。二人はここに泊まるようにイエス様に強く勧めたとあります。30節「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。」とあります。ここは不思議な場面です。本来、神に祝福してパンを割くのは主人の役割です。この時、二人がイエス様を招いたわけですから、クレオパか、もう一人が主人として神に祈り、パンを割いてイエス様に渡すのが普通です。ところが、この場面では明らかにイエス様が主人として神に祝福の祈りをささげ、パンを割いて二人に渡したのです。この場面をある先生は「主客転倒」という言葉で説明しました。つまり、客で会ったイエス様がこの場面で主人となったということです。このことは、私たちが復活したイエス様と出会うためには大切なことです。イエス様が主人として神を褒めたたえ、パンを割いて渡したとき、彼らの目が開かれ、イエスだとわかったとあります。二人は、望みをおいていたイエス様があのようなむごい殺され方をして失望し、目が覆われていました。それゆえ、イエス様が近づいて来てもイエス様だと気が付きませんでした。その覆いを取り除かれたのがイエス様だと言うことです。

現代に生きる私たちの目も覆われています。私たちは、イエス様が処女のマリアから生まれたこと。また、イエス様が十字架に付けられ殺された後、三日目に復活して天に昇って行かれたことを信じることはできません。私たちの目は、この世の常識という覆いで覆われています。私たちはこの覆いを自分の力で取り除くことはできません。その覆いを取り除くことができるのは神様だけです。そのために私たちがしなければならないことが「主客転倒」主人の座を神様に譲り渡すと言うことです。私のことを例に出すなら、私は教会に通うようになり神様を信じたいと思いましたが、先ほどの「処女降誕」と「イエス様の復活」を信じることができませんでした。そこで、私は神様に祈りました。「神様、私はあなたを信じたいです。夢か幻で私の前に現れてください。そうすればあなたを信じます。」そのような祈りが正しいかどうかを牧師先生に相談すると、そのような祈りは正しくありませんと言われました。そして、夢や幻ではなく聖書の言葉によって信じなしと言われたのです。それから、私は先生に言われたように熱心に聖書を読みました。ある時、ふっと気づきました。私は今まで、イエス様を自分と同じ人間だと感じていました。それゆえ、処女降誕も復活もあり得ないと考えていたのです。それこそ、この世の常識でイエス様を見ていました。しかし、聖書を読むなら、イエス様は神の子であると何度も証言されています。そうか、イエス様は私と違って神の子なんだから、処女降誕も復活もあり得るではないかと、気が付かされたのです。それこそ、この世の常識という覆いが取り除かれた瞬間でした。以前の私は、自分が主人となり、自分の力で神様を信じようとしていました。そのために、夢や幻でイエス様を見ることを求めたのです。しかし、その主人の座を神様に譲り渡した時、私の目の覆いは取り除かれました。主人の座を神様に譲ると言うことは、神様のことばを、そのまま信じると言うことです。それがなかなか難しいことで、この世の常識を取り除くことは、人間には不可能なことです。どうしても神様の力が必要なのです。また、この場面でイエス様が二人になさったことも大切なことです。イエス様は道々、聖書全体からご自分について解き明かされたとあります。聖書は神様がご自身を私たちに明らかにされた書物です。それゆえ、私たちがイエス様を信じる上で欠かすことができないものです。しかし、ここで注意したいことですが、聖書を熱心に勉強すれば神様を信じることができるかというとそうではありません。聖書は、私たちが神様を信じる助けにはなりますが、この覆い(偏見や常識)を取り除くのは神様の働きだと言うことです。それは、私たちが努力して信じることがないためです。私たちが努力して神様を信じるなら、自分を誇る者になってしまいます。あくまでも、救いは神様の御業です。私たちは聖書を読み神様を求め続けるとき、神様が私たちの目の覆いを取り除いてくださるのです。イエス様は群衆に言われました。マタイの福音書7章7節「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」神様は私たちにご自身を明らかにしたいと願っています。そのために聖書を与えてくださいました。それゆえ、他に神様と出会う方法はないということです。そういう意味でイエス様は、マタイの福音書7章13節で「狭い門から入りなさい。」と言われたのです。エマオに向かう二人の弟子たちにイエス様が近づいてくださったように、イエス様は私たちにも近づいてくださいます。私たちが心を開き、神様に求めるなら、イエス様が私たちの覆いを取り除いてくださり、私たちの主人、また、私たちを愛してくださる、父なる神様となってくださるのです。