「思い煩う心」 マタイの福音書6章19節~34節
神様はなぜ、私たちに「自由意志」を与えてくださったのでしょうか。「自由意志」とは、神様が私たちに選択する力を与えてくださったということです。この「自由意志」のゆえに、アダムとエバは、悪魔に誘惑された時、神様との約束を破ってしまいました。もし、二人に自由意志がなかったなら、二人は罪を犯すことはなかったでしょう。二人は、神様の約束を破ることも従うこともできたのです。しかし、二人はサタンの声に従ってしまいました。それは、二人がサタンのことばを自らが選んだということです。それゆえ、二人は罰を受けなければなりませんでした。神様はなぜ、二人に「自由意志」を与えられたのでしょうか。それは、私たち人間が自分の意思で、神様を愛し、神様を褒めたたえるためです。神様が人間に「自由意志」を与えられなかったら、人間はロボットのようにプログラムに従って動くだけです。そこには、喜びも、感動も、愛もありません。神様は私たちが、自ら神を愛し、従う者として、人間に「自由意志」を与えられました。それゆえ、私たちは、神様に従う自由と従わない自由が与えられています。しかし、それゆえ、私たちはその結果に責任を持たなければなりません。私たちのいのちの最後の時、私たちは神様の前に立たなければなりません。神様は私たちの罪を赦すために、神の子イエス様を十字架の上で犠牲にされました。それを信じる者は罪が赦され、天国に入れますが、それを信じなかった者は、自ら犯した罪を償わなければなりません。
1、何を自分の宝とするか(6章19節~21節)
19節でイエス様が言っている「自分の宝」とは、地上に蓄えるわけですから、お金や、金銀、宝石などを指しているものと考えられます。イエス様は、そのような宝は19節「虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」と言われました。それに対して、イエス様は「自分の宝は天に蓄えなさい。」と言われました。「天に蓄えられる宝」は「虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」と言われました。天に蓄えられる宝とはどのようなものでしょうか。虫もさびもつかない物ですから、お金や宝石ではありません。天に蓄えられるものですから、神様と関係あるものと考えられます。それは、神様との約束や、神様と関わった出来事「証し」と言われるものではないでしょうか。神様は私たちとの約束や関わりを忘れる方ではありません。私たちでさえ、人の善意を覚えているなら、神様も私たちとの思い出を忘れることはありません。そのような神様との思いでが、証しとして、思い出として、天に宝として蓄えられていくのではないでしょうか。21節「あなたの宝のある所に、あなたの心もあるからです。」とイエス様は言われました。私たちが何に関心を持っているか。この世の富に関心があればその人の心は地上にあります。しかし、その人の関心が神様にあるなら、その人の心は天国にあるという意味です。
2、からだの明かりについて(6章22節23節)
「からだのあかり」と言うとわかりにくいですが「からだ」ではなく「こころの明かり」と考えたらどうでしょうか。誰しも心を持っていますが、体のどこに心があるのか、特定することは出来ません。しかし、心が暗いとか心が明るいとは感じます。当時の人々は目から光が入り、その人の体(こころ)を明るくすると考えたようです。それゆえ、大切なのは私たちが何を見ているかです。暗い現実を見るならば私たちのこころは暗くなり、体全体をも暗くします。しかし、光なる神様を見るなら、希望を見いだし、心だけではなく、体全体が明るくなるのではないでしょうか。私たちは何を見ているでしょうか。暗い世の中でしょうか。それとも、私たちを愛してくださっている神様でしょうか。
3、誰に仕えることを選ぶか(マタイの福音書6章24節~34節)
24節から34節のことばは、今日のお話の結論に当たります。1番目の「この地上に蓄える宝と天に貯える宝」そして、2番目の何を目に停めるのか「この世の暗闇か光なる神様か」それは全て私たちの選択に委ねられています。また、それはイエス様が言われるように私たちは、二人の主人に仕えることができません。24節「一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」それゆえ、私たちは「神にも仕え富にも仕えることは出来ません。」あるお金持ちの青年が永遠のいのちを求めてイエス様を訪ねました。そこでイエス様は彼に、あなたの財産を貧しい人々に施して、私について来なさいと言われました。ところが、この青年は悲しんでイエス様の前から去って行ったとあります。聖書は「彼が多くの財産を持っていたからである。」と記しています。イエス様は。彼が多くの財産を持ちながら、神様に仕えようとしていることを知っていました。それゆえ、イエス様は、財産か神様かどちらかを選びなさいと彼に決心をも求めたのです。その結果、彼が選んだのは財産でした。イエス様は群衆に言われました。「お金持ちが天の御国に入ることは難しい」と、人間は目に見えない神様より、目に見える財産に頼りやすい者です。それゆえ、イエス様は「お金持ちが天の御国に入るのは難しい」と言われたのです。では、目に見えない神様を信じるとはどういうことでしょうか。それは、25節「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、からだのことで、何を着ようかと心配しない」人生を歩むということです。なぜなら、神様が必要な物は全て与えてくださるからです。以前は、富みに仕えていましたから、自分の必要は自分で働いて得なければなりませんでした。しかし、神に仕えるとは、必要な物は神が備えてくださるとうことです。それを教えるためにイエス様は「空の鳥を見なさい。」と言われました。また、「野のゆりを見なさい」と言われました。空の鳥を養っているのは神様であり、野のゆりをそのように装っているのも神様です。また、私たち人間は空の鳥よりもすぐれた者であり、野の草よりも神様が良くしてくださる者です。それゆえ、神様を自分の父として選んだ者の生活は、親が子を養うように、神様が養ってくださるのだから心配する必要はないと教えてくださっているのです。33節の「神の国と神の義」とは、天国のことではなく「神様の支配」を表した言葉です。それゆえ、神様の支配(神様の御心を求めること)を第一に求めるなら、すべての必要は神様が満たしてくださるという約束です。34節「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分にあります。」とあります。私たちはあすのことも、その先のこともわからない者です。それゆえ、先の先まで心配しても思い煩いが増えるばかりです。それゆえ、ペテロはこのように教えています。ペテロの手紙第一5章7節「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」クリスチャンになる以前の私の生活は、自分の力に頼っていましたから、将来に対して不安がありました。10年先はどうなるだろう、20年先はどうなるだろうと。しかし、今は神様に出会って荷が軽くなりました。10年先20年先などのわからない先の人生を神様にゆだねたからです。目に見えない神様を信じるとはそういうことです。それでも人は不安を抱えるのです。それゆえ、神様は私たちに聖書を与えてくださいました。聖書を読むことによって私たちは、神様の約束のことばを確かなものにすることができるのです。