「恵みの雨」

「恵みの雨」 詩篇68篇7節~10節

 6月に入りました。この時期、雨の日が多く気が滅入るという人も多いのではないでしょうか。以前、「恵みの雨」という小さな雑誌がありました。なぜ、その本のタイトルに記憶があるかと言うと、「雨」を恵みと感じることがあるのかと不思議に思ったからです。私にとって雨の日は、気が滅入る一日で、決して雨の日を恵みの日と感じたことはありませんでした。皆さんはどうでしょうか。しかし、考えてみたら、農家の人にとって、雨は大切なものです。雨が降らないと作物が育たず、生活に影響が出ます。それゆえ、昔からどこの国でも、雨乞いなるものがありました。イスラエルの国でも同じです。彼らにとって雨は神様からの恵みだったのです。

1、遊牧民族から農耕民族へ

 イスラエルの民がモーセによってエジプトを出た後、彼らは不信仰のゆえに40年の間、荒野をさ迷い歩きました。そして、新しい世代となり、ヨシュアによってイスラエルの民はカナンの地を征服することができました。しかし、ヨシュアの死後、イスラエルの民は、エジプトから助け出してくださった真の神を捨てて、カナンの地の神々を礼拝するようになってしまいました。士師記2章11節~14節「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらの神々を拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。」そのことは、モーセもヨシュアも心配していたことです。彼らはなぜ、自分たちをエジプトから助け出してくださった神、荒野を40年も養われた神を捨てて、カナンの神々、バアルやアシュタロテに仕えたのでしょうか。神学校で学んだことですが、イスラエルの民はエジプトを出てから、40年の間、遊牧民族として生活してきました。しかし、カナンの地を征服した彼らは、今度は、農耕民族としての生活が始まったのです。イスラエルの民は全く新しい生活に変化していかなければなりませんでした。イスラエルの民は、新しい農耕生活をするために、今まで、カナン人たちが生活してきた様式を取り入れるしかありませんでした。そこで、イスラエルの民は、カナン人の農作業の方法を取り入れると共に、カナン人達の習慣も取り入れるようになり、バアルやアシュタロテの神々を拝むようになったとうことです。バアルとアシュタロテは豊穣の神々と言われています。これを聞いてなるほどと思いました。イスラエルの民はカナンの地に定着するために、その土地の生活様式を取り入れました。また、農業は自然と深く関わりがあります。雨が降らなかったり、気温が低ければ、作物は育ちません。それこそ、神様だよりとなります。そこで、農耕生活に関わる神々を拝むようになったということです。イスラエルの民は、自分たちの生活を守るために、イスラエルの神を捨てて、豊穣の神、バアルやアシュタロテを自分達の神として選んだのです。

2、雨を恵みと感じるために

 誰にとっても雨はうれしいものではありません。しかし、先ほどの、農家の人々にとっては、それこそ、恵みの雨なのです。そのように、自分の事だけではなく、雨を必要とする人たちのことを考えるなら、雨もまた、恵みの雨と考えることができるのではないでしょうか。もう少し、考えを広げるならば、「病気」や「失敗」さえも恵みとして考えることができます。誰しも、「病気」や「失敗」はうれしいことではありません。できれば避けたいできごとです。しかし、このマイナスの「病気」や「失敗」も見方や考え方を変えることによってプラスにすることができます。それには、神様の助が必要です。病気で一カ月入院した人がこのように言いました。「一カ月、ゆっくり聖書が読めて、これからの自分の人生のことを考えることができて良かった。」彼は、忙しいビジネスマンで、ゆっくり自分の人生について考える余裕がありませんでした。しかし、思わぬ病気で一カ月も入院することになり、時間ができて、ゆっくり考えながら聖書が読めて良かったと思ったのです。一か月の入院は忙しい彼にとって、辛い出来事でしたが、思わぬ時間ができて、普段、なかなか読むことができなかった聖書がたくさん読めて良かったと感じたのです。

 また、クリスチャンで目の見えないゴスペル歌手の人がこのように言いました。「僕は目が見えなくて不便ではあるが不幸ではありません。」生まれつき目の見えない彼を見て、人々は不幸な人だと思うかもしれません。しかし、彼はそうは思いませんでした。確かに、目が見えないことで、不便なことも多くあるでしょう。しかし、不幸かどうかは、本人がどう感じるかです。お金があり有名な俳優が自殺しました。人々は、どうして、あんなにお金があり、成功した人が、突然、自殺などしたのか。本人にとってお金があることや成功することだけが必ずしも幸いな人生ではありません。以前、見たニュースで、イギリスで有名なお金持ちが亡くなり、その全財産を自分が飼っていた猫に相続させたという話を聞きました。彼女にとって、信頼できるのはその猫だけで、また、愛する者もその猫だけだったのでしょう。彼女は、はたして幸せな人生だったのでしょうか。不幸か幸いかを決めるのはその人自身です。何でもマイナスに受け取る人もいます。しかし、私たちは信仰によって、マイナスもプラスに受けることができます。病気や失敗でも、見方を変えるだけで恵みに変えることができます。

 コリント人への第二の手紙12章7節~10節「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないように、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるように三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」パウロの痛み苦しみが何であったのかはわかりませんが、パウロはこの苦しみを取り除いてくださるように三度も神様に祈りました。しかし、その祈りはかなえられませんでした。しかし、パウロはその苦しみの意味を知ることができました。その意味は、この痛みによって高慢になることがないように、また、神様の力が弱さの内に完全に現されることをパウロが学ぶためでした。パウロは苦しみ痛みをプラスに受け取ることができたのです。私たちの人生にも、思わぬ事故や病気に見舞われることがあります。そんな時ほど、心を落ち着けて、神様に祈るなら、新しい発見や気づきがあるのではないでしょうか。ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」