「神の前に謙遜になったアラムの将軍ナアマン」 箴言15:33
箴言は、現代にも通じる知恵のことばです。今日の箴言15章33節のことばは、私が特に好きなことばです。「謙遜は栄誉に先立つ」とは「謙遜な者に栄誉は与えられる」という意味です。では、「謙遜」の反対「高慢」については、聖書は何と言っているでしょうか。箴言16章18節「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」とあります。また、18章12節には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」とあります。新約聖書においてもペテロの手紙第一5章5節に「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」とあります。
今日は、アラムの将軍ナアマンから神様の前に謙遜であることについて学びます。まず、地図で、イスラエルの国とアラムの国の位置を確認しましょう。そして、旧約聖書の列王記第二の5章をお開きください。5章の1節に、ナアマンの人となりが紹介されています。「アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツアラアトに冒されていた。」と紹介されています。ナアマンは、(1)王に重んじられ、尊敬されていた。(2)勇士である。(3)ツアラアトに冒されていた。とあります。ツアラアトとは、以前はらい病と表現されていました。現在では、らい病ではなく、重い皮膚病と理解されています。イスラエルの国ではらい病は、神様の裁きによるものと理解され恐れられていました。また、律法によると、らい病の者は、人に近づくこともできず、神殿で神様を礼拝することも禁じられていました。しかし、アラムの国では、それほど人々に嫌われた病気ではなかったようです。
ここに一人の、イスラエルから捕虜として連れて来られた若い娘がいました。彼女はナアマンの妻に仕えていたとあります。彼女は主人の妻に言いました。3節「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツアラアトを直してくださるでしょうに。」彼女が話した預言者とは、北イスラエル王国で活躍した預言者エリシャのことです。彼女は、イスラエルの国で行われた、エリシャの奇蹟の話を聞いていたのでしょう。彼女は、主人のことを思い、主人の妻にエリシャのことを告げたのです。ナアマンは妻からその事を聞き、王に相談しました。当時、外国に旅をするためには王様の許可が必要でした。将軍と言う立場のナアマンが他国に入るためには、その国の王の許可が必要でした。そうでなければ、スパイ容疑で捕らわれたしまうでしょう。そこで、王はナアマンのために、北イスラエルの国の王様に手紙を書いてナアマンに持たせたのです。その手紙を受け取った北イスラエルの王様は驚きました。アラムの国からツアラアトに冒された者を遣わし、この者を直してくださいという内容の手紙です。北イスラエルの王は7節「自分の服を引き裂いて言った。『私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人は、この男を送って、ツアラアトを直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。』」イスラエルの国では、ツアラアトを治すことのできるのは神様か預言者しかいません。北イスラエルの王は、アラムの王が難問を与えて、戦を仕掛ける言いがかりと受け取ったのです。王の態度を聞いたエリシャは人をやって自分の所にそのツアラアトの者をよこすように伝えました。ナアマンはエリシャの家の近くに立ちました。するとエリシャから使いが来てナアマンに言いました。10節「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」これを聞いてナアマンは怒ったとあります。11節12節「何ということだ。私は彼が来てきっと出てきて、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツアラアトに冒された者を直してくれるとおもっていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないだろうか。」そして、怒って帰途に就いたとあります。ここで、彼のしもべがナアマンに言いました。13節「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」ナアマンが偉いのは、このしもべの意見を聞き、それに従い、エリシャのことば通りに、ヨルダン川で七回身を沈めたことです。ナアマンが高慢であったなら、しもべのことばも聞かず、エリシャのことばにを従わなかったでしょう。ナアマンは将軍と言う高い地位にありながら、イスラエルの捕虜の娘のことばを信じ、自分のしもべのことばに耳を傾け、イスラエルの預言者のことばに従って、ヨルダン川に七度身を沈めたのです。すると、ナアマンのツアラアトはいやされ、幼子のからだのようになったのです。ナアマンはこの出来事を通してイスラエルの神をまことの神と信じるに至ったのです。
神様の前に謙遜になるとは、自分の考えや希望を捨てて神様のことばに従うことです。以前、イエス様の話をある人にした時、その人は私に言いました。「何もしないで、イエス・キリストを信じるだけで天国に行けるというのは、ずいぶん都合がいい話にきこえます。何もしないで、天国に入れるなんていう都合の良い話は信じられない。」確かに、私たちはイエス様を神の子と信じるだけで、天国に入ることができます。しかし、イエス様は、私たちを天国に招くために、神の姿を捨てて人として誕生して下さり、無実で、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださいました。イエス様は私たちを罪から救い出すために、ご自身のいのちを犠牲にしてくださったのです。私たちは努力をして天国に入るわけではありませんが、私たちに与えられた「救い」には、神の子イエス・キリストの尊い命が犠牲としてささげられているのです。私たちは、罪ある者で、どんなに頑張っても、罪の問題を自分で解決することは出来ません。それゆえ、イエス様の身代わりの命の他に私たちを救う方法は一切見当たらなかったのです。都合が良いと考える人の中には、人は努力して天国に入らなければならないという考えがあります。しかし、本当にそんなことができるでしょうか。もし、仮に、人間の努力によって救いをえることができるなら、イエス様は人として誕生する必要ななかったし、十字架で死ぬ必要もなかったのです。努力して天国に入ろうとするのは、人間の高慢な姿のように思います。神が私たちに求められたのは、ナアマンのように素直に神様のことばに従うことです。それこそが、神様の前に謙遜になることです。