「神の恩寵による救い」 エペソ人への手紙1章3節~6節
「恩寵」(おんちょう)とは、「めぐみ、いつくしみ」という意味です。特に「神の恩寵」という意味は「神様から与えられる特別な恵み」を意味します。キリスト教では、救いに関して、「100%神様の恩寵です。」と表現します。その意味は、「救いは100%神様の恵みであり、人間は一切、救いに関与することができない。」という意味です。私たちがどんなに努力して良い人間になろうとしても、また、正しい人生、人から褒められる人生を歩んだとしても、この救いには一切影響を与えることができない。救いとは神様が一方的に与える恵みだという意味です。
ルターと共に宗教改革を行ったカルバンは、「予定説」という考えを表しました。人は、生まれる前から、救われる人は、神様によって定められているという教えです。初めにエペソ人への手紙1章3節から5節までを司会者の方に読んでいただきました。その中で5節「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられるのです。」とあります。この「あらかじめ定められておられる」という意味が、生まれる前からという意味を表します。
さらに、パウロは、ローマ人への手紙9章10節から13節を通して、旧約聖書のヤコブとエサウの例をあげて、神様の選びということを説明しています。イサクの妻リベカは不妊の女性でした。そこで、イサクは彼女のために祈りました。すると双子がリベカのお腹の中に宿りました。ところが、このお腹の子どもたちが、ぶつかり合い、不安に思ったリベカは主のみこころを求めに行ったとあります。創世記の25章23節「すると主は彼女に仰せられた。『二つの国民があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。』」そして、長男エサウが生まれ、彼のかかとをつかんで、ヤコブが生まれました。「ヤコブ」とは、「かかと」または、「押しのける」という意味のことばです。ローマ人の手紙9章10節からパウロはこのように教えています。11節12節「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。」13節「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』とあるとおりです。」とあります。神様は生まれる前から、ヤコブを愛しエサウを憎んだとあります。その基準は何でしょうか。二人が生まれる前ですから、どちらが賢いとか、どちらが正しい人間であるかという評価が出る以前の問題です。ということは、一方的に神様はヤコブを愛し、エサウを憎んだということになります。つまり、人間の側に選ばれた理由があるのではなく、選ぶ側の神様にその理由があるということです。カルバンは聖書のそのような記述から「予定説」を考え出したのです。
しかし、カルバンの教え「予定説」を否定する人もいました。アルミニウスと言う人がカルバンの「予定説」を批判しました。彼は、神様が生まれる前からそのように救われる人、救われない人を定めているということを受け入れませんでした。イエスキ・リストによる、十字架の救いは、すべての人に与えられた神様の恵みであると教えたのです。また、後に、メソジスト教会を作ったウエスレーもカルバンの「予定説」を受け入れませんでした。ウエスレーは、さらに、自由意志を強調し「人は自分の罪を認めて悔い改めて救われる」ことを強調したのです。現在、カルバン派から生まれた長老教会、改革派教会はカルバンの教えを信じています。また、メソジスト派から生まれた、メソジスト教会、ホーリネス教会などは、ウエスレーの教えを信じています。二つのグループの大きな違いは、長老教会、改革派教会は幼児洗礼を授けます。しかし、ホーリネス教会もアライアンス教会も幼児洗礼は授けません。なぜなら、信仰告白無しで洗礼を授けることはありえないからです。
どちらの教えが正しいかということは、いまだに結論はでていません。カルバンもウエスレーも、救いが神様の恵みであることは一致した考えです。二人の違いは、救いに関して、カルバンが100%神様の恵みであることを強調したのに対し、ウエスレーは、人間の自由意志を強調したにすぎないのです。また、パウロは、出エジプトの時を持ち出して、神様はエジプトの王をかたくなにされて、モーセに10の災害を下させました。エジプトの王パロがかたくなになったのは神様の御心だというのです。神はモーセに言われました。ローマ人への手紙9章15節「神はモーセに『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。」とあります。また、18節に「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」とあります。すると次のような反論が出てきます。19節「すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょうか。』」神が全てを定めておられるならば人間の責任はどこにあるのですかという反論です。パウロはそれに対して、20節でこのように答えています、「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったいなんですか。形造られた者が形造る者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。つまり、私たちは神によって創られた被造物であって、神は創造主である。創られた私たちが、創り主である神様に意見を述べることは許されないということです。また、陶器を作る者と陶器のたとえについても話されています。(21節~23節)
最後に、もう一度、エペソ人への手紙1章に戻って、神様の選びの目的は、救いだけではありません。4節「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあります。ヤコブは兄を退けて長子の権利を奪い、父をだまして兄の祝福を奪う者でした。そのヤコブが神様と格闘してイスラエルという新しい名前を神様から頂きました。その後のヤコブの姿に変化を見ることができます。ヤコブは明らかに神様によって変えられたのです。私たちも同じことが言えます。私たちは、良い人間だから選ばれたわけではありません。神様の一方的な恵みによって選ばれた者です。しかし、神様の選びは、人を選んで終わりではありません。神様はその選んだ者を愛し、陶器を作る者が自分の思いに合わせて陶器を作るように、私たちをも、神様の似姿へと変えてくださるのです。救いは、私たちが努力して勝ち取る者ではありません。もし、自分の努力で勝ち取ったならば、人は自分の努力を誉めるでしょう。しかし、神の恩寵による救いは、神様の御名を褒めたたえます。それだけではなく、選んでくださった神様はその後の私たちの人生に責任を持ち、神様に喜ばれる者へと変えてくださるのです。それが、神様の選びであり、神の恩寵による救いなのです。