「羊飼いと羊の関係」

「羊飼いと羊の関係」 詩篇23篇1節~6節

 6月16日の父の日に、イエス様が父なる神様の姿を群衆にわかりやすく説明するために、父と子の関係を通してお話になられた「放蕩息子」のたとえ話から学びました。その神の姿とは、父から離れ、ボロボロの姿で帰って来た息子をとがめもせず、喜んで息子のために宴会を開く父の姿でした。イエス様はそこに、罪を認めて神様のもとに帰る罪人の姿と、その罪人を喜んで赦し迎える神様の姿を表されたのです。

 聖書ではもう一つ、神様と人間との関係を説明するたとえとして、羊飼いと羊の関係で説明している個所が何カ所かあります。先ほどお読みしました、詩篇23篇は羊飼いと羊の関係をわかりやすく説明した有名な個所です。ただ、この羊飼いと羊のたとえは、当時の人々や、身近に羊飼いがいれば、わかりやすいたとえ話ですが、現代の日本人には、少し説明がなければ、聖書が私たちに伝えようとしているメッセージを正確に理解することは出来ません。そこで、今日は詩篇23篇を通して、ダビデが私たちに伝えようとしているメッセージに耳を傾けたいと思います。

ダビデが描いた神様の姿(詩篇23篇)

 詩篇には「ダビデの賛歌」と表題が付けられた詩篇がたくさんありますが、すべての著者がダビデであるかどうかは定かではありません。ダビデのために作られた詩篇やダビデを思って作られた詩篇も、等しくダビデの賛歌としてまとめられた可能性があるからです。しかし、この23篇だけは、疑いもなくダビデの作と信じられています。なぜなら、ダビデの家系は羊飼いであり、幼いころからダビデは羊と共に生活していたからです。

 1節「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」この個所はダビデの信仰告白です。ダビデは幼い頃より神様の存在を信じ、神様が物質的にも精神的にも、満たしてくださることを信じていました。

 2節「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」羊飼いの一番の仕事は、牧草地を見つけることと、水のある場所を知っていることです。イスラエルの国は岩地が多く牧草地を見つけることは大切な仕事でした。また、羊たちに水を飲ませる場所を見つけることも大切なしごとでした。当時は井戸から水を汲み上げていましたが、その井戸は深く、簡単に作れるものではありません。また、井戸がたくさんあったわけではありません。それゆえ、水を確保するために、羊飼いはどこに川があり、どこの井戸があるかを知っていなければなりません。

 3節「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」羊は視力が弱くて、自分の力で牧草地を見つけることや、外敵から身を守ることができない動物です。それゆえ、羊は羊飼いがいないと生きられない動物です。ダビデはそのことがよくわかっていたので、自分のたましいを神様に委ね、神様の戒めを守り、日々の歩みを神様に委ねて生活していたのではないでしょうか。

 4節「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」死の陰の谷を歩くとは、危険や災害など命の危機に関わる出来事です。ダビデは、若くして神様より王様になるように選ばれましたが、サウル王に命をねらわれ、逃亡生活を経験しました。私たちの人生も、私たちが願う通りに生きられるものではありません。病になったり、愛する者を失ったり、災害にあったり、仕事を失ったり、そのような状況の時、誰が助けてくれるでしょうか。両親や友達が助けてくれるかもしれません。しかし、それでも完全ではありません。ダビデはなぜ、わざわいを恐れませんと言いえたのでしょうか。それは、神様が共におられることを知っていたからです。むちと杖は外敵から羊を守る羊飼いに必要な道具です。

 先週の礼拝の時のゴスペルでフットプリントという讃美をしました。このゴスペルのもとになった詩を書いた人がマーガレット・パワーズと言う人で、彼女は夢の中で、砂浜を歩いている夢を見ました。砂浜に二人の足跡があり、途中足跡が一つの所がありました。彼女はそのことを思い起こすと、自分が一番つらい時であったことを思い出しました。そこで彼女は神様に尋ねました。「どうして私が一番つらい時になぜ私から離れたのですか。」すると神様は苦しみの時に、一人にしたのではなく、あなたを背負ってわたしが歩いていたから足跡が一つだったと語って下さいました。

 神様の恵みは大きく分けて二つあります。(1)私たちの罪が赦され、天の御国に私たちの住まいが備えられていること。(2)神様が私たちと共におられることです。一つ目の天国の住まいは死んでから頂く恵みですが、もう一つの、神様が共におられるという恵みは、イエス様を信じてすぐに頂ける恵みです。しかも、旧約聖書の時代は、神様に選ばれた特別な人だけに与えられた恵みでした。しかし、新約聖書の時代に入って、イエス様が十字架で殺され、三日目に復活して天の父のもとに帰られた後、イエス様は弟子たちに約束された聖霊様を送って下さいました。今私たちは、イエス様を神の子と信じる信仰によって、神と同じ性質の聖霊様が共にいてくださる恵みの時代に生きています。私たちの人生も、ダビデと同じように、死の陰の谷を歩くような人生かもしれません。たとえ、穏やかな人生であっても、最後の死は、自分一人で受け止めなければなりません。私たちは、この死をどのように受け止めるでしょうか。ある人はあきらめの気持ちで死を受け入れ、ある人は恐れを持って死を迎えます。しかし、私たちクリスチャンにとって死は終わりではありません。クリスチャンにとって死は、この地上での別れであり、天国への旅立ちです。それゆえ、クリスチャンの死には希望があります。多くのクリスチャンの方々が、この希望を持って最後の時を迎えました。この地上での最後の最後まで、神様はその人と共におられます。それゆえ、多くのクリスチャンは平安な心を持って死を迎えることができます。私たちの人生は一度、倒れて終わりではありません。また、神は死の間際まで私たちと共におられ、死んだ後、神は私たちの魂を天国に導き、永遠に天の御国で神様と共に暮らすことができます。羊に羊飼いが必要なように、私たち人間にも神様の助けが必要な存在です。私たちは、羊と同じように視力の弱い者です。自分の未来を見ることができない者です。私たちは、私たちを守り導いてくださる、羊飼いのような神様を必要とする者でしょうか。私たちはダビデのように神様に全てを委ねた歩みになっているでしょうか。自分の日々の歩みを見直してみましょう。