「長子の権利と永遠の命」 創世記25章27節~34節
創世記の1章から、神様の計画を学んできました。(1)神は六日間で天地を創られ、七日目に休まれました。(2)神様はこの地上を管理するものとして人間をご自身に似せて創造されまた。(3)最初に創られた人、アダムとエバは罪を犯し神様からの特権を失いエデンの園から追い出されてしまいました。(4)神様はアダムとエバにカインとアベルという二人の息子を与えましたが、カインはアベルに嫉妬し彼を殺してしまいました。弟アベルを殺したカインは、さらに、神様に退けられ、カインの子孫は自分たちの欲望を満たす社会を作り上げました。(5)カインとアベルを失ったアダムとエバに神様はセツを与えました。また、セツの子孫から主の名を呼ぶ種族が生まれました。(6)しかし、カインの子孫とセツの子孫が混ざり合い、悪が増大してしまい、神様は洪水で地上を滅ぼすことを決心されました。(7)しかし、ノアは神様の御心に叶い、神様はノアに箱舟を作るように命じました。(8)ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから地上の人々は増えていきました。(9)神様はセムの子孫アブラハムと契約を結び、彼の子孫を大いに祝福すると約束してくださいました。(10)神様の約束通り、百歳のアブラハムと九十歳のサラとの間にイサクが誕生しました。これが神様の創造から前回までの聖書の流れです。
アブラハムはイサクのために生まれ故郷からリベカという女性を迎えイ、サクの妻としました。リベカは不妊の女性でした。そこで、イサクが彼女のために祈ると、彼女は双子を身ごもりました。しかし、リベカのお腹の中で双子がぶつかり合うため、リベカが主の御心求めると、兄が弟に使えるということばが与えられました。そして兄エサウと弟ヤコブが生まれました。26章の7節「この子どもたちは成長した。エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。」とあります。28節「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた。」とあります。父イサクは狩りが好きなエサウを後継者にと考えていました。しかし、リベカは神様の言葉を信じヤコブが後を継ぐべきだと考えていました。この二人の考えの違いによって、この後、大きな問題へと発展していきます。前回のアブラハムの話の時、アブラハムが175歳で亡くなった時、エサウとヤコブは15歳であったことを年表を見てお話ししました。アブラハムが亡くなるまで、ヤコブはおじいちゃんのアブラハムの話を直接聞く機会がありました。ヤコブはどのような思いでアブラハムのお話を聞いたのでしょうか。きっと、ヤコブはアブラハムの信仰から影響を受けたのではないでしょうか。
創世記25章の29節から、ヤコブとエサウの性格が現わされる事件が起こりました。ヤコブはいつものように家の中で料理をしていました。そこへ、猟で疲れたエサウが入ってきました。エサウはヤコブが料理している食べ物を求めました。それに対して、ヤコブはエサウに「長子の権利を売ってください。」と条件を出したのです。エサウはお腹がすいているので、「長子の権利」など何になるかと、ヤコブの言うとおりに、長子の権利をヤコブに譲るという誓いをしました。聖書には、「こうしてエサウは長子の権利を侮った(軽蔑した)」とあります。実は、この「長子の権利」という意味が、ヤコブとエサウでは違いがあります。エサウの考える「長子の権利」とは、イサクの財産すべてを指しています。つまり、父イサクの財産を受けて族長となることを意味していました。しかし、ヤコブが求めた「長子の権利」とは、父イサクがアブラハムから受けた神様の約束(祝福)を意味していました。ヤコブは家の中にいることが多かったので、15歳まで、祖父アブラハムから神様の話を毎日のように聞いていたのではないでしょうか。そこで、ヤコブはアブラハムが神様から頂いた祝福を自分のものにしたいと願ったのです。実際、この後、ヤコブは兄に成りすまして、イサクより祝福の祈りをエサウから奪い、エサウに憎まれてしまいます。エサウにヤコブを殺されることを恐れた母リベカは、自分の兄ラバンのもとにヤコブを逃がしました。その後、20年たって、ヤコブは神様に生まれ故郷に帰るように言われました。ヤコブは兄をだましたことでエサウを恐れて生まれ故郷に帰ります。しかし、エサウは喜んで弟ヤコブを迎えました。以前、私は、兄のエサウはさっぱりした性格で、20年も前の出来事なので、ヤコブのことを赦して寛大な心で弟のヤコブを迎えたのだと思いました。しかし、考えてみると、エサウは、自分が願っていた父イサクの財産は独り占めにしています。一切、ヤコブは父の財産をもらっていないのです。ですから、エサウにしたら、長子の権利を奪われ、特別な祝福の祈りを奪われたといっても、結果として、自分の望んだ父の財産はすべて自分のものとしているのです。それゆえ、エサウはヤコブに対する憎しみは全く無かったのだと思います。では、ヤコブが受けた祝福は何でしょうか。ヤコブはアブラハムが神様から受けた約束のものを自分のもとしました。この後、出エジプト記で、モーセの前にあらわれた神様は、ご自分をモーセに表すとき「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われました。ヤコブはしっかりとアブラハムの祝福を受け継いだのです。
イエス様は群衆にマタイの福音書16章26節でこのように言われました。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」この世のものは、この世においていかなければなりません。たとえ全世界を支配したとしても、死んでしまえば何の益にもなりません。しかし、永遠のいのちは違います。生きている間は、神様が共にいてくださり、亡くなった後は、天国において永遠に神様と共にいることになります。私たちに神様から与えられる永遠のいのちとは、全世界よりも価値のあるものです。エサウはこの世のものを求め、この世の財産で満足しました。しかし、ヤコブは、アブラハムに与えられた神様の約束、祝福を求めました。そして、ヤコブの子孫からイエス様が誕生し、ヤコブは今でも天の御国で神と共に暮らしているのです。
神様の祝福とは、苦しみや悲しみの無い人生の事ではありません。苦しみや悲しみがあっても神様が支えてくださる人生、それが信仰の歩みです。ヤコブの人生においても危機的な状況が何度かありました。(1)兄エサウに命を狙われ、家を逃れて荒野で一夜を過ごしたとき。ヤコブは一人で野宿をするとき心細かったと思います。しかし、ヤコブはこの時、天に届くはしごの夢を見て、神様が共におられることを実感しました。(2)ラバンのもとから20年ぶりに故郷に帰るとき、ヤコブは兄の怒りを恐れました。そこで、ヤコブはたくさんの贈り物をエサウに送り、物でエサウの怒りを静めようと試みますが、ヤコブの不安と恐れは亡くなりませんでした。ある晩、ヤコブは神様と格闘して、神様にしがみつきました。その時、ヤコブは神様にもものつがいを外されますが、神様より「イスラエル」という名をいただきました。(3)ヤコブの家族が故郷に帰った後、ヤコブの娘ディナがヒビ人に犯されという事件が起こりました。それを聞いたヤコブの息子たちは、ヒビ人に割礼を受けさせ、彼らが弱っているときに、彼らを襲い皆殺しにしてしまいました。それを聞いたヤコブは、周りの部族からの報復を恐れ神様に祈ったとあります。その時、神様からの恐怖が周りの部族に下ったので、彼らはヤコブの家族を襲わなかったとあります。
キリスト教は神様との個人的な約束(契約)が大事です。エサウとヤコブは同じ兄弟でしたが、互いに求めるものに違いがありました。エサウはこの世の権力と財産を求めました。ヤコブは神様の契約と祝福を求めました。私たちは何を求める者でしょうか。それは、私たちが生きている間に決断を下さなければならないのです。目に見えるこの世の財産か、目に見えない神様ご自身か。