「あなたは高価で尊い」イザヤ書43章1節~4節
新しい朝のNHK連続ドラマが始まりました。タイトルは「べっぴんさん」です。「べっぴんさん」ということばを私は、きれいな女の人、可愛い女の子に対して使う言葉と思っていました。しかし、「べっぴん」とは「別品」という漢字を使い、「特別な物」という意味があることを初めて知りました。ドラマでは、主人公の女の子が病気のお母さんのために、花のししゅうをしたハンカチを自分で作ってプレゼントするのですが、あまり上手にできませんでした。しかし、お母さんはそれを喜んで、「これは私にとってべっぴんよ、あなたが一生懸命作ってくれたんでしょう。」と言って、そのハンカチを受け取る場面がありました。その場面を見ていて、先ほどのイザヤ書の御言葉を思い出しました。
先ほどのイザヤ書43章1節にある「ヤコブ」という言葉は、イスラエルの民を指すことばです。旧約聖書の創世記に登場するアブラハムと神様は特別な契約を結ばれ、アブラハムの子孫を特別に祝福すると約束されました。申命記の7章7節8節にこのように書かれています。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民より数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたがたを贖い出された。」神様がイスラエルの民を愛し、エジプトの地から助け出されたのは、彼らの数が多かったり、助け出す価値があったからではなく、先祖との約束の故だと言われています。神様はアブラハムとの契約のゆえに、イスラエルの民を特別な民として愛されたのです。
「聖別」という言葉があります。「聖別」とは、特別に聖い物、素晴らしい物という意味ではありません。神様のために用いる道具を聖別された物と呼びます。聖書ではイスラエルの民に対して聖別された民と言うことばを用いています。イスラエルの民は模範的な民ではありませんでした。イスラエルの民が荒野で40年もさ迷い歩いたのは、彼らの不信仰のゆえでした。神様は彼らの不信仰のゆえに荒野を40年も生活させ、その40年の間に、新しく生まれたイスラエルの民を訓練してカナンの地を征服させたのです。しかし、それでもヨシュアが亡くなると、イスラエルの民は、カナン人の神々を礼拝する者になってしまいました。神様は彼らを助けるために、士師(リーダー)を遣わし、外国の民から彼らを助けられました。しかし、その士師が亡くなると、また、イスラエルの民は、他の神々を求めて礼拝するようになってしまったのです。こんな民が聖い民であるわけがありません。しかし、イスラエルの民は、神様に選ばれた民として、神様に聖別された民なのです。
ローマ人への手紙8章28節に「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。北イスラエルの民はアッシリヤに滅ぼされ、南ユダはバビロニヤに滅ぼされました。それは、彼らの不信仰(偶像礼拝)のゆえでした。しかし、南ユダが滅ぼされた後、ユダヤの人々は70年後に捕囚を赦され、国を再建することができました。その70年の間に、ユダヤ人は神殿礼拝ができないために、会堂に集まり、礼拝をするようになりました。また、彼らは旧約聖書を編さんし、御言葉を学び、御言葉を唱える礼拝へと変えられたのです。以前は動物を殺して動物の血を流し、火で焼く礼拝でした。神様はこの70年の捕囚の時を利用して、彼らの礼拝の形を現在の形へと成長させたのです。捕囚という苦しみを通して、イスラエルの民を新しくされたのです。詩篇119篇71節に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてをまなびました。」とあります。イスラエルの民も、捕囚という苦しみがなければ、新しい礼拝の形は生み出されなかったでしょう。神様はイスラエルの民の不信仰を用いて、新しい礼拝をイスラエルの民の中に形作られたのです。イスラエルの国が滅ぼされたのは彼らの不信仰のゆえでした。しかし、神様は彼らの不信仰をも益に変えてくださり、神殿礼拝から会堂礼拝へと成長させてくださったのです。これこそが、すべてのことを働かせて益としてくださる神様の恵みなのです。
以前、クリスチャンであるご婦人のご主人(クリスチャンではない方)を教会に誘った時、そのご主人は、「自分は教会に行くほど正しい人間にはなれないから遠慮します。」と言われました。一般に、日本のクリスチャンはまじめで、正しい人と言うふうに周りから見られています。私たちクリスチャンは、正しいから、また、正しい人間になりたいから教会に来たわけではありません。しかし、私たちが教会に来初めの頃は、だれでも、正しいクリスチャンになろうと努力する者ではないでしょうか。また、そうなりたくてもなれない自分に失望する者だと思います。しかし、私たちの目標は、正しい人になることではなく、神を愛する者になることです。そして、私たちが神を愛する時、私たちの人生が、歩みが正され、神にも人にも喜ばれる人生に変えられるということです。自分の力で正しい人になろうとしても自分を苦しめるだけです。また、外側を飾るだけで、内側は罪人のままです。神様がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らの正しさの故ではありません。彼らは罪を犯し、たくさんの失敗を繰り返しました。それでも、神様の愛は変わらず、神様は今でもアブラハムの子孫であるユダヤ人を愛しておられます。それと同じことが私たちクリスチャンにも言うことができます。私たちは正しいから神に愛されるのではありません。イエス様のゆえに私たちは永遠に愛されるのです。
「別品」も「聖別」も同じことを私たちに教えています。私たちが正しいから、私たちが聖いから、私たちが価値があるから、神様に愛されるのではなく、神ご自身が私たちを「別品」として、「聖別された者」として、また、価値ある者として、愛してくださるから、私たちの存在は、神様の目に高価で尊い者として愛されるのです。