いのちの尊厳

「いのちの尊厳」ヨハネの福音書9章1節~7節

最近の社会の動きの中で、人のいのちが軽んじられているように思います。人が簡単に殺され、また、殺すことに罪の意識が薄れているように思います。医学が進歩して人間のいのちが大切にされる反面、小さな命が犠牲にされています。高齢出産が多くなり、出産前にお腹の子のDNAを調べ、障がいがあるかどうか高い確率でわかるようになりました。その結果、障がいがあると判明した90%近い両親が中絶を選んだという新聞の記事を読みました。障がいが表面に現れる確率は80%で20%は問題はないかもしれません。また、その障がいがどの程度表面に現れるのかもわからないのに、多くの人々が中絶を選んだという事です。確かに、障がいを持って生まれる人生は大変かもしれません。また、障がいを持った子を育てることは親にとって大変な負担かもしれません。しかし、その子のいのちを奪う権利が人間にあるのでしょうか。障がいを持って生まれて立派な生涯を送った人や偉大な功績を残した人もいます。人のいのちは神様から与えられた大切ないのちです。私たちはもっとその命を大切に扱うべきではないでしょうか。

ヨハネの福音書9章で、1節「また、イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」とあります。弟子たちはそれを見てイエス様に質問しました。2節「先生。彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」弟子たちの考え方は「因果応報」という考え方で、日本人の中にもあります。つまり、物事には原因と結果があり、彼が盲目に生まれたのは、彼が罪を犯したから神様から罰を与えられたのか、それとも彼の両親が罪を犯したため神様から罰として盲目の息子が生まれたのかと言う意味です。旧約聖書のヨブ記は、ヨブの悲惨な姿を見た、ヨブの友人たちがヨブに罪を認めさせ、悔い改めを求め、さらにヨブを苦しめる姿を描いています。ヨブの悲惨な姿を見たヨブの友人たちは、ヨブの悲惨な姿の原因はヨブ自身の罪にあると考えたからです。しかし、ヨブ記はヨブの内に罪はない(潔白である)と証言しています。ここに、ヨブ記のテーマ「義人がなぜ苦しむのか」があるのです。ヨブ記の中で言えば、ヨブが苦しみを受ける前に、神様とサタンとの会話があります。神様はヨブを誰よりも信頼していましたが、サタンはそのヨブの信仰が偽物(ご利益)だと神様のヨブへの信頼に反対の意見を述べたのです。ヨブの受けた苦しみは、神様の判断が正しいことを示すためのヨブの苦しみでした。決してヨブの友人たちが考えたような因果応報では答えがでない苦しみだったのです。

苦しみには、色々な意味があります。イエス様はこの場面で、彼が盲目に生まれた理由をこのように説明しました。3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現されるためです。」この後、イエス様は地面につばきをして、泥を作り、彼の目に塗られて、彼に「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われました。そして、彼がイエス様のことばにしたがってシロアムの池で目を洗うと、彼の目がいやされ、見えるようになり、イエス様が救い主メシヤであることを証明し神様の栄光を現したのです。まさに彼が盲目に生まれたのは、イエス様によって彼の目がいやされ、イエス様が救い主であることを証明し、神様の栄光を現すためだったのです。

確かに、苦しみは罪の刑罰として与えられることがあります。イスラエルの王ダビデは、バテシェバと姦淫の罪を犯し、子を失うという罰を受けました。しかし、ダビデは自分の罪を悔い改め神様に赦しを求めました。神様はダビデの罪を赦し、もう一人の子ソロモンを与えられ、ソロモンがダビデの後継者となり彼も偉大なイスラエルの王となったのです。また、苦しみは私たちが神様と出会うために与えられることがあります。生まれつきの私たちは神様を必要としません。それゆえ、神様は、私たちに苦しみを与え、私たちが自分の弱さを知り、神様の助けを求める者となるのです。また、苦しみや病を負うことによって、人の苦しみ病を知り、苦しむ人、病の人を理解するために、神様は私たちに病や苦しみを与えることがあります。他にも苦しみの意味はあります。しかし、苦しみについてはっきりと言えることは、苦しみの理由はたくさんあると言う事です。決して罪の結果、神様から与えられた刑罰だけではないということです。

また、私たちがクリスチャンとなるということは、クリスチャンは決して苦しみに合わないという事ではなく、苦しみの時でも神様は私たちと共におられるという約束があるということです。ボディーガードという仕事があります。ボディーガードは自分のいのちをかけて依頼人のいのちを守るのが仕事です。イエス・キリストは私たちを罪の刑罰から守るためにご自分のいのちを犠牲にしてくださいました。それほど、神様は私たちを愛しておられるという事です。私たちの命はそれほど尊いということです。自分を愛せない人、自分が生まれたことを好意的に見ることができない人がいます。自分など生まれて来なかった方が良かったと考える人です。私も教会に来るまで、自分を愛せない、自分が生まれたことを喜べない人生でした。また、そのために自殺さえ考えました。しかし、教会に来て神様のことを知り、自分は偶然に生まれたものではなく、神様の計画によって、神様が私を愛するものとしていのちを与えてくださったことを知り、初めて、自分を愛せるようになり、自分がこの世に生まれてきたことを好意的に受け容れることができるようになりました。障がいがあろうと、病に苦しんでいようと、私の能力や性格に関係なく、神様は私たちを尊い者として愛しておられます。それゆえ、私たちも、自分のいのちを神様に愛されている尊い命として大切にし、また、隣人のいのちも神様に愛されているいのちとして、尊び大切にしなければならないのです。