わたしの契約の血です

マルコの福音書14章12節~26節

祭司長、律法学者たちはイエスを捕らえ殺そうと計画していましたが、大勢の群衆が集まる過越の祭りは避けたいと考えていました。しかし、神の計画はこの過越の祭りの日にイエス・キリストのいのちを奪うことでした。実際にイエス・キリストはこの過越の祭りの日に十字架に付けられて殺されました。それゆえ、イエス・キリストの十字架の死は人間の計画ではなく、父なる神の計画であったのです。

1、過越の祭りの起源

神はなぜ、イエスの死を過越の祭りの日と定められたのでしょうか。過越の祭りの起源は旧約聖書の出エジプト記12章に記されています。アブラハムの子孫ヤコブの家族は70人でエジプトに移住しました。その後、へブル人(イスラエル人)は、エジプトで増え広がり、エジプトの王を恐れさせる存在となりました。エジプトの王はへブル人の人口を抑えるために労働の苦しみを与え、男の子が生まれたらすぐに殺すように助産婦たちに命じました。それでもへブル人の人口を抑えることができませんでした。へブル人はエジプトの迫害のために苦しみ、神に助けを求めました。そして生まれたのがモーセです。モーセの両親はモーセが殺されるのを恐れ、ナイル川の川岸にモーセを籠に入れて置きました。誰かに拾われ助かることを願ってです。そこにエジプトの王の娘がその籠をみつけ、自分の息子として育てることを決心しました。しかも、それを見ていたモーセの姉がモーセの母を乳母としてつれてきたので、モーセはしばらく、母によって育てられた後、王宮でエジプトの王の娘の子として育てられたのです。モーセが40歳の時、へブル人の苦しみを見て彼らを助けたいと思いました。しかしまだ、神の時はではありませんでした。モーセはへブル人を助けるためにエジプト人を殺してしまい、それがばれるのを恐れ荒野へと身を隠しました。モーセは40年荒野で羊飼いとして生活しました。神は80歳になったモーセにへブル人を助け神が約束された地にへブル人を連れて行くように命じられました。モーセはエジプトの王と交渉しますが、エジプトの王はモーセのことばに耳を貸しませんでした。そこで神はエジプトを10の災害で苦しめました。その十番目の災害が、エジプトにいる初子を殺すという神の刑罰でした。しかし、神はモーセにへブル人のために一つの約束を与えあられました。出エジプト12章5節~7節「あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければばらない。あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。」12節~14節「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」神は約束通り、エジプト中に災害を与えられましたが、へブル人はその約束の故、災いから助けられました。イスラエルの民はこれを記念して現在に至るまで、この祭りを守っているのです。

2、過越の祭りとイエス・キリストの死

22節~25節まで、過越しの食事の時、イエスは弟子たちにこのように言われました。

22節「イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』」23節「また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはその杯から飲んだ。」24節「イエスは彼らに言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの契約の血です。』」25節「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してあいません。」過越の祭りの時には、パン種を入れないパンを食べます。それは、彼らがエジプトを急いで出るために、パン種を入れて発酵させる時間がなかったからです。そのためこの時のパンは硬いパンを砕いて食べることが習慣となっていました。それゆえ、イエスが弟子たちにパンを与える時、そのパンを砕いて渡しましたが、イエスはそのパンを「わたしのからだです。」と言われました。それは、この後に行われる十字架の死について言われたことでした。また、ぶどう酒の入った杯を弟子たちに渡すとき、

「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。」と言われました。神と人が契約を結ぶとき、その証として動物の血が流されました。イエス・キリストは私たちの罪を身代わりとして引き受けるために、神と契約を結び、ご自身の血をその証明とされたのです。旧約聖書において、人は自分の罪が赦されるために動物を殺し、その血を神にささげました。しかし、それは不完全な罪の赦しで、何度も何度も動物を殺しその血を流さなければなりませんでした。しかし、イエス・キリストは神の子として、罪のない完全なものとして、私たちの贖いのためにその尊いいのちを犠牲とされたのです。過越の祭りは神の刑罰からの救いを表す祭りでした。そこで、神は羊の血を見てその家を通り過ぎると約束されました。新しい契約では、神の子のいのちが流され、イエスを神の子と信じる者の罪は赦すと約束してくださいました。イスラエルの民は今でも過しの祭りを守っています。私たちは聖餐式を通してイエスが私たちの罪の身代わりとして死なれたことを忘れないために記念として守っています。それゆえ、私たちにとって聖餐式は、神の愛の証であり、私たちの罪がすでに赦されていることの証でもあるのです。神はイエスを過越の祭りの時に殺すことによって、イエスの死が私たちの救いの完成となり、私たちの罪が赦されたことを伝えるためにあえて、イエスの死を過越の祭りの日に定められたのです。

神がご自身の一人子を人間のために犠牲にすること。また、神の子が罪人である私たちの罪の身代わりとして死なれたということは、人間の知恵では理解できないことです。もし、神が人格がない存在であるならば、神が人の身代わりになるなど考えられないことです。しかし、神が私たちと同じ人格を持っておられ、また、その性格が愛であるなら、考えられないことではありません。私たちでも、子どもを助けるために自分のいのちを犠牲にすることはあります。私たちは罪びとの身代わりをすることはできませんが、神は私たち以上の大きな愛を持ったお方です。その方が、私たちが罪を犯し裁かれる姿を平気で、または、無視することはできません。その大きな愛ゆえに私たちを助ける違いありません。たとえそれが、自分の大切な我が子のいのちを犠牲にするとも、また、ご自分のいのちを犠牲にするとも。創世記のはじめに神が人間を造られたとき、ご自身に似せて造られたとあります。神は私たちを特別に愛し、ご自身に似せて造られました。それゆえ、神はアダムとエバを愛しました。また、罪を犯した二人をも愛し、エデンの園を追い出すとき、皮の衣を与えられました。それと同じように、神は今も罪人である私たちを愛しておられるのです。