アブラハムと神の約束の子イサク

創世記22章1節~14節

創世記の12章で、神はアブラハムに現れ、親族を離れ私が示す地へ行くように言われました。また、そのことばに従うなら、「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」と約束されました。この時、アブラハムは75歳、サラは65歳でした。アブラハムの妻サラは不妊の女性で、二人にはまだ子が産まれていませんでした。そんな二人にとって、この神の約束はどれほど大きな希望となったことでしょう。アブラハムは神のことばを信じてカナンの地に向かいました。しかし、カナンの地で生活が始まっても、二人には子が生まれませんでした。そこでサラは、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに妻として差し出し、ハガルによってアブラハムに子を得させようとしたのです。サラにとって、それはどれ程大きな決意がいったことでしょう。

ハガルはアブラハムによって身ごもりましたが、それは神様の計画ではありませんでした。ハガルは高慢になりサラを見下げるようになったとあります。サラは自分の行為を後悔したことでしょう。しかし、彼女は自分の立場を守るためにハガルをいじめました。ハガルはサラのいじめに耐えかね、アブラハムの家を逃げ出しました。しかし、神はアブラハムのゆえに、ハガルに現れ、彼女にアブラハムのもとに帰り、身を低くするように命じました。ハガルはアブラハムの家に戻り、男の子を産みました。そして、その子はイシュマエルと名付けられました。しかし、神はアブラハムとの約束を覚えておられ、アブラハム百歳サラが九十歳の時にこどもが産まれました。そしてイサクと名が付けられました。

イサクの乳離れの祝いの日、サラはイシュマエルがイサクをからかっているのを見てしまいました。サラはイサクの将来を心配し、アブラハムにイサクを家から追い出すように願いました。アブラハムはイシュマエルも自分の子のゆえ悩みましたが、神がアブラハムにサラの言う通りにするように命じ、また、イシュマエルも一つの国民とすることが約束されたので、アブラハムはハガルとイシュマエルを家から追い出しました。

そのようなこともあって、アブラハムにとってイサクが唯一の跡継ぎであり、神が約束を守って与えられた子ですから、どれほど大切に育てたことでしょう。しかし、それが後に大きな問題となりました。創世記22章1節「神がアブラハムを試練にあわせられた。」とあります。その試練とは、2節「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」という命令です。神はなぜ、このような厳しい試練をアブラハムに命じたのでしょうか。その答えは、この出来事の結論を見るとわかります。12節「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」このことばから察すると、アブラハムのイサクに対する愛情が大きくなりすぎて(イサクを大切にしすぎて)イサクの存在が神と同じぐらい、または、神よりも大切なものになっていたのではないでしょうか。神はそのことをはっきりさせるために、この試練を与えられたのです。この出来事からアブラハムの信仰を学びます。アブラハムは神のことばを聞いてどうしたでしょうか。3節「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若者と一緒に息子イサクを連れて行った。」とあります。アブラハムに迷いはありませんでした。普通考えれば、イサクは神の約束の子です。その子を全焼の生贄としてささげれば、神の約束はどうなってしまうのか。神に命令の意味を問いかけたり、撤回を願うのが普通ではないでしょうか。しかし、アブラハムはただ、神のことばに従う道を選びました。ここにアブラハムの神への信頼を見ることが出来ます。

また、この時のイサクは幼いこどもではありません。6節「アブラハムは全焼のささげ物のために薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。」とありますから、すでにイサクは青年の年齢に達していたと考えられます。9節「神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。」とあります。イサクはなぜ、抵抗したり、逃げなかったのでしょうか。これは、想像ですがイサクは父アブラハムを信頼していたので、抵抗することがなかったのではないでしょうか。10節「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」11節「そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。『アブラハム、アブラハム。』彼は答えた。『はい、ここにおります、』12節「御使いは彼に言われた。『その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。』」13節「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。」14節「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、『主の山には備えがある』と言われている。」ここに神に信頼するアブラハムの信仰と、父アブラハムを信頼する息子イサクの姿を見ます。

また、この出来事は、私たちに対する警告でもあります。私たちもともすると、アブラハムのように神と同じように、また、神以上に大切にしているものがあるのではないでしょうか。財産や家族、仕事など。財産や家族、仕事を大切にすることは大事なことです。しかし、神を信じるとは神を第一にすることです。神は時として、そのことを理解させるために私たちに試練を与えられる時があります。私は牧師になるために仕事を辞めました。私にとって印刷の仕事はやりがいのある仕事で、好きな仕事でした。しかし、神はもっと素晴らしい仕事を与えてくださいました。「偶像」とは、神々を礼拝することだけではありません。神よりも大事にする物があるなら、それらはすべて偶像となります。イエスは群衆に言われました。マタイの福音書10章37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではあいません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」父母を敬い、家族を愛することは神の戒めにもあります。しかし、神よりも家族が大切になるならそれが偶像となるのです。仕事やお金も同じです。しかし、それは私たちから取り上げることが目的ではなく、もっと素晴らしい物を与えるために、今持っている物を手放さなければならないということです。私たちにとって一番大切なものは何でしょうか。お金も大切、家族も大切、仕事も大切です。しかし、私たちが神を失ってしまったらどうなるでしょうか。もう一度、暗闇の世界に戻り、神に裁かれる者になります。イエス・キリストとはなぜ、十字架で殺されなければならなかったのでしょうか。それは、私たちの罪が赦され永遠のいのちを得るためでした。これ以上に、私たちに必要な物があるでしょうか。この世の豊かな生活を求めれば、あれもこれも必要になってきます。しかし、本当に必要な物は一つだけです。それは、神の愛とイエスの贖いだけです。これこそが、神から与えられる永遠の祝福なのです。