イエスとザアカイの出会い

「イエスとザアカイの出会い」ルカの福音書19章1節~10節

イエス様は宣教の働きを始める前に、荒野において悪魔の誘惑をうけられました。マタイの福音書4章3節「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエス様は悪魔に言われました。4節「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてあるとお答えになられました。イエス様が引用されたのは、旧約聖書申命記8章3節のことばです。イエス様の力からすれば、石をパンに変えることは簡単なことでした。しかし、その力は自分の必要を満たすために与えられた力ではなく、神様の栄光を現す時だけに使われる力でした。また、イエス様が人としてお生まれになられたのも神様の御心を行うためでした。私たちは偶然に生まれた者ではなく、神様の計画を持って生まれました。そういう意味では、私たちは神様から離れて、何を得たとしても満足することはできません。私たちが満足でできるのは、神様と出会い、神様と正しい関係を回復した時、まことの喜びを感じるのです。

ルカの福音書19章に有名なザアカイの話があります。彼は取税人のかしらで金持ちであったとあります。当時、世界はローマ政府によって支配されていました。ユダヤの国もローマ政府に支配され、ローマ政府にユダヤ人たちは税金を支払っていたのです。しかし、ユダヤ人たちはプライドが高く、時々、ローマ政府に税金を払わないで暴動を起こしていました。そこで、ローマ政府が考えたことが、取税人という仕事です。ローマ政府はユダヤ人を雇ってユダヤ人から税金を集めさせればユダヤ人も云うことを聞くだろうと、考えたのです。しかし、ユダヤ人はローマ政府に雇われた取税人を売国奴と嫌い、だれも彼らと親しくする者はいませんでした。そんな扱いを受けても、取税人という仕事はお金儲けをするためには一番の仕事でした。彼らは、ローマ政府が定めた以上の税金を集めて自分のふところに入れていたのです。ローマ政府はそのような取税人の働きを知っていながら見過ごしていました。また、ザアカイは取税人のかしらとありますから、彼は大金持ちで大きな家に住んでいました。しかし、それだけ不正にお金を儲けた人ですから、それだけユダヤ人に嫌われていたのです。

そのザアカイの住む町にイエス様が来るとのうわさが伝わりました。ザアカイはイエス様がどんな方か見ようとしたとあります。お金儲けにしか興味がないザアカイがイエス様を見たいと思ったのです。イエス様の弟子の中に同じ取税人だったマタイがいることを知っていたのかもしれません。普通、ユダヤ人は取税人と一緒に食事もしませんでした。それなのに、イエス・キリストは取税人を自分の弟子にした。ザアカイにとってそれは信じられない出来事です。神様の働きをする教師の弟子の中に同じ取税人がいるこのことにザアカイは興味を示したのかもしれません。しかし、彼は背が低くて群衆のためにイエス様を見ることができませんでした。そこで、ザアカイは木の上に上り、上からイエス様を見下ろそうとしたのです。ところが、ここに奇跡が起こりました。イエス様は彼を見て言われました。5節「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えたとあります。ザアカイはどうして、イエス様が自分のことを知っているのか。また、自分の家に泊まることにしていたのか不思議に思ったことでしょう。しかし、イエス様はザアカイのことをよく知っていました。また、この街に来たのも、ザアカイの家に泊まるためだったのです。このお話しの結論は10節「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」とあります。ザアカイは取税人という仕事のために、ユダヤ人でありながら、同じユダヤ人からはユダヤ人として扱われていませんでした。別の言葉で言えば、「失われた人」だったのです。9節でイエス様は「きょう、救いがこの家に来ました。」と言われました。なぜ、イエス様はこのように言われたのでしょうか。その理由は、その前の、ザアカイのことばに有ります。8節「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」とザアカイが告白したからです。ザアカイの今までの生活の中心はお金でした。どうすれば人をだましてもお金儲けできるかでした。その彼が、自分の財産の半分を貧しい人たちに施しますと宣言したのです。明らかに彼はイエス様によって変えられました。ザアカイはイエス様と出会っただけで、どうしてこうも変わってしまったのでしょうか。

お金では買えないものがあります。愛や尊敬はお金では得ることはできません。ザアカイは取税人の頭で、贅沢な生活をしていました。しかし、誰からも愛されず嫌われ者でした。大きな家に住みながら訪ねて来る者もいませんでした。ザアカイはそのような生活に満足していたのでしょうか。ザアカイはイエス様と出会って、本当の生き方を見出したのです。同じ取税人であったマタイも同じだったでしょう。お金は生活に必要なものですが、お金自体が人を幸せにするものではありません。私たちは、神様に愛されるために創られました。しかし、創られた私たち自身が真の神様を知らなければ、永遠に本当の人生を歩むことはできません。新しい場所に行くために人は地図を見ます。しかし、地図を信用しなかったり、地図に従って進まない限り目的地に着くことはありません。今まで、ザアカイは道に迷ったものであり、神様の目に失われた者でした。ザアカイはイエス様と出会うことにより、愛されることの素晴らしさを知りました。また、ザアカイは人を愛することの素晴らしさをも知ったのです。そして、イエス様を通して、神様を信じる真の生き方、人生を見出すことができたのです。私も以前はザアカイと同じように、神様の目に失われた者でした。どのように生きたら良いのか、迷子のような人生でした。そのような者に神様は聖書を通して真の人生を教えてくれました。自分のためだけに生きる生き方ではなく、神を愛し隣人を愛する生き方です。あなたは、自分の人生の行くべき道を知っているでしょうか。もし、行くべき道に迷っているなら、聖書をお読みください。神様は聖書を通してあなたの行くべき道を示して下さいます。