マタイの福音書1章18節~25節
クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いするキリスト教のお祭りです。では、なぜ、イエス・キリストの誕生を世界中でお祝いするのでしょうか。それは、イエス・キリストの誕生は、クリスチャンだけではなく、世界中の人々に対する神の愛の表れだからです。イエス・キリストの誕生を物語ではなく、世界中の人々が歴史的事実であることを認めています。しかし、イエス・キリストが処女のマリアから生まれたことを信じているのはクリスチャンだけです。なぜなら、処女が身ごもって男の子を産むと言うことは、この世の常識では考えられないからです。では、なぜ、イエス・キリストは処女マリアから生まれなければならなかったのか、また、なぜ、クリスチャンはそのことを信じているのかについてお話します。
1、イエスが処女のマリアから生まれた理由
イエスは、マリアとヨセフの子として誕生しました。しかし、実際には、イエス・キリストは天地創造の以前から神の子として父なる神と共に存在していました。その神の子が人として誕生したのが処女降誕の出来事です。ではなぜ、イエス・キリストは処女のマリアから誕生しなければならなかったのでしょうか。それは、私たちの罪の身代わりとして死ぬためでした。もし、イエス・キリストが神の姿で地上に登場したとしても、神の体では、私たちの身代わりとして死ぬことができないからです。イエス・キリストは十字架に付けられて殺されましたが、それは、初めから神の計画でした。聖書を読むなら、イエス・キリストは何度でも十字架の刑から逃れることはできました。また、イエスの力からすれば、全世界を支配することも可能であったでしょう。しかし、イエス・キリストは、あえてその力を自分のために使わず、神の御心に従って十字架の上でご自身のいのちを犠牲にされたのです。処女のマリアから男の子が誕生すると言うことは人間の力では不可能なことです。しかし、イエス・キリストはマリアとヨセフの子として誕生されたのではなく、神が人の肉体をもって誕生されたということです。イエスは、神としての性質を持ち、肉体を持って人としてこの地上に誕生されたのです。それを「二性一人格」と呼びます。聖書は、イエスの誕生を聖霊によって誕生したと記しています。しかし、私たちは、どのようにして、神の子が聖霊によって肉体を持って誕生したのかその方法を理解することはできません。ただ、神の子キリストが私たちの罪の身代わりとして死ぬためには、先ほどの「二性一人格」罪のない神の子で、また肉体をもたなければ、私たちの罪の身代わりとして死ぬことはできませんでした。旧約聖書の時代、イスラエルの民は罪の赦しのために、牛や羊などの動物をささげていました。しかし、それは私たちの完全な罪の身代わりとはなりませんでした。私たちの罪の身代わりとなるためには、罪のない者でなければなりません。この世に罪のない者は存在しません。罪のないお方は神だけです。しかし、神は肉体がなく、私たちの罪の身代わりになることはできません。それゆえ、イエスは私たちの罪の身代わりとして死ぬため、また、私たちと同じ肉体を持つために、マリアの体を借りて人として誕生されたということです。処女降誕の出来事は、人間の知恵で理解できることではありません。しかし、神の子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして誕生するためにはその方法しかなかったのです。
2、信仰によって処女降誕を受け入れる
マリアが身ごもった時、マリアとヨセフは婚約の状態でした。この時期、ユダヤ教の法律では夫婦と認められていましたが、実際には夫婦としての生活は始められていませんでした。そんな時に、ヨセフはマリアが身ごもったことを知ったのです。ヨセフは正しい人で正式な結婚前に二人が関係を持つことはありませんでした。それなに、マリアが身ごもったということは、自分以外の男性とマリアが関係を持ったとしか考えられません。正式ではないとしても、妻が他の男性と関係を持つということは、姦淫の罪を犯したと言うことになります。ユダヤ教では、姦淫の罪を犯した場合、複数の人々から石を投げられ、殺される死刑の刑罰を受けることになります。しかし、マリアを愛するヨセフは、彼女にそのような刑罰が下るのを避けるために、ひそかに彼女を離縁する方法を選ぼうと考えていたのです。そんな時に、夢の中に主の使いが現れ、ヨセフに言いました。20節21節「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」ヨセフは主の使いのことばを信じて、マリアを妻として迎えることを決心したのです。ヨセフは主の使いが言われた「聖霊によってマリアが身ごもる」ということを理解できたのでしょうか。彼は私たちと同じように理解することはできなかったでしょう。では、なぜ、彼はマリアを妻として迎えることを決心したのでしょうか。(1)マリアが不貞を働くような女性ではないことをヨセフは信じた。(2)マリアが身ごもったことが、彼女の不貞によるものではなく、神のご計画であることを主の使いのことばによって信じたということです。では、私たちはどのようにしてイエスの処女降誕を信じることができるのでしょうか。(1)イエスが神の子であり、私たちを罪から救うためには、人として肉体を持って生まれなければならなかったことを信じる。(2)イエスは神の子ゆえに、死より三日目に復活して天に昇って行かれたことを信じるということです。それは、聖書全体を神のことばとして信じるということです。イエス・キリストが誕生するまで、ユダヤ人は神より与えられた律法を守ることによって、神に認められる正しい人となり、天の御国に入ろうと努力していました。パウロという人は、熱心に律法を守り、そのためにキリスト教を迫害しました。ところが、彼は、復活したイエスと出会い、弟子たちが伝えることが正しく、自分が間違っていることに気付かされ、自分の罪を認めてクリスチャンになり、多くの人々に、律法を行うことによっては、天の御国に入ることができず、ただ、イエスの贖い、イエスの十字架の死と復活を信じる信仰によって救われることを教えたのです。パウロは律法の教えに詳しく、信仰によって救われることを、旧約聖書に登場するアブラハムを例に出して教えました。アブラハムとサラには高齢になっても子が生まれませんでした。そんなアブラハムに神が現れ、わたしが示す地に行くなら、あなたの子孫を祝福し、大いなる国民とすると約束されました。アブラハムはその言葉を信じて旅立ちました。しかし、すぐに子どもが生まれたわけではありません。ある時は神のことばを疑いましたが、神は彼を外に連れ出し、星を見せて、あなたの子孫はこのようになると言われました。彼はその言葉を信じました。神は彼の信仰を義とされたとあります。アブラハムと妻のサラは高齢になり、子を産むことができる年齢を過ぎていました。しかし、アブラハムはそれでも神様の約束を信じたのです。その結果、アブラハムが百歳、サラが九十歳の時にイサクが生まれたのです。どのようにして百歳と九十歳の夫婦に子どもが生まれるでしょうか。しかし、神はこの二人に男の子を与えられたのです。神に不可能なことはない、神は約束されたことをかならずなしてくださると信じること、これが信仰であり、神は、私たちにイエスを神の子と信じる者、イエスの復活を信じる者に永遠のいのちを与えると約束してくださいました。それゆえ、神が私たちに求めておられることは、神のなしたことを理解することではなく、信じることです。信じるとは神を信頼することです。神はそのために私たちに聖書を与えてくださいました。聖書は神のことばであり、神の約束のことばです。私たちは聖書のことばを信じて、イエスの処女降誕と死よりの復活を信いているのです。