マルコの福音書15章16節~22節
先週はイースター礼拝でイエスの死と復活についてお話しました。また、ユダヤ教の指導者(議員)であったニコデモがどのようにしてイエスの弟子になったのかについて学びました。今日はもう一人、クレネ人シモンについて学びます。イエスが祭司長たちに捕らえられ、ユダヤ教の宗教裁判において死刑の判決が下されました。しかし、ユダヤ人は公に人を死刑にすることが許されていませんでした。そこで、ユダヤ教の指導者たちはローマ総督ピラトのもとにイエスを連れて行き、死刑の判決をくだすように迫ったのです。ピラトはイエスが妬みによって訴えられていることを感じ、イエスを釈放しようと考えました。しかし、彼はユダヤ人たちの暴動を恐れ、イエスが無実であるのを知りながら、イエスに死刑の判決を下し、ユダヤ人たちに引き渡したのです。その後、イエスはローマの兵隊から辱めを受けた後、十字架を背負わされて、処刑の場所ゴルゴタに向かいました。当時の死刑囚は、自分の十字架の横木を背負わされてゴルゴタまで歩かされたと言われています。しかし、この時のイエスは、連日の裁判の疲れのために、十字架を背負って歩くことができなくなってしまいました。そこで、ローマの兵隊は近くにいたクレネ人シモンと言う人に、イエスの十字架を無理やり背負わせたとあります。この個所はマタイの福音書、ルカの福音書にも記されています。しかし、マルコだけがこのシモンがアレクサンドロとルフォスの父と彼のことを紹介しています。ルフォスという名はローマ人の手紙16章13節に「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。」とあります。ここでパウロは「わたしの母によろしく」と言っていますが、別の訳では「彼の母によろしく」とも訳されています。このルフォスという人は、ローマ教会で有名な信徒で、後にマルコとも親しい関係であったと考えられます。それゆえ、マルコはこのイエスの十字架を背負ったシモンが「アレキサンデルとルフォスの父で」と紹介したのではないかと思われます。そう考えると、この時、シモンは無理やりにイエスの十字架を背負わされ、しばらくイエスの後ろに従って歩いたことになります。以前お話した「パッション」にもこの場面が描かれていました。イエスが途中で動けなくなり、ローマの兵隊が近くにいたシモンを呼びました。その時、彼はしまったという顔をし、無理やりイエスの十字架を背負わされてイエスの後をついていきました。最初は嫌な顔をして付いて行きますが、次第に彼の顔に変化が現れてくるのが表現されていました。聖書によれば、この後、シモンはキリスト者となり、ローマの教会に属し、彼の家族も共に教会で奉仕をしていたのではないかと思わされます。当時の十字架は、呪いの象徴でした。誰も関わりたくないものです。しかし、クレネ人シモンはイエスの十字架を背負いイエスに従っていくことによって、イエスがただの人ではなく、神の子と信じたのではないかと思います。この出来事が、彼の人生を変え、家族全体の救いにつながったのです。
マタイの福音書10章38節でイエスはこのように言われました。「自分の十字架を背負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」その前のイエスのことばを見ると、37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
とあります。自分の十字架を背負ってイエスに従うことは、家族と対立することであり、社会と対立することだと言われました。それでもなぜ、私たちは自分の十字架を背負ってイエスに従う必要があるのでしょうか。39節「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」とイエスは言われました。自分のいのちを得るために、イエスを否定する者は永遠の命を失い、イエスのために自分のいのちを失う者は永遠のいのちを得ると言う意味です。この世の生き方とイエスに従う生き方は、対立関係にあります。それゆえ、この世に従って生きるならば、この世の弟子となり、イエスに従って生きる時私たちはイエスの弟子となり、永遠の命を受ける者になるということです。またイエスは別のことばでこのことを現わしています。マタイの福音書7章13節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きくその道は広く、そこから入って者が多いのです。」14節「いのちに至る門はなんと狭くその道はなんと細いことでしょう。そして、それを見出すものはわずかです。」いのちに至る門は狭くその道は細く見出す者もわずかです。しかし、滅びに至る門は大きく広く、多くの者がそこから入っていくとあります。イエスが示した十字架を背負って歩む道は、苦難の道です。しかし、十字架の道は苦難だけではありません。イエス様はこのようにも言われました。マタイの福音書11章28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29節「わたしは心が柔和でへりくだっているからあなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎを得ます。30節「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」自分の十字架を背負ってイエスに従うと言うことは、イエスのくびきを負うと言うことです。そこにはたましいの安らぎがあると言われました。また、自分の十字架とは決して負いきれないような重荷ではありません。パウロはそのことをこのように言っています。コリント人への手紙第一10章13節「あなたがたが経験した試練はみな、人のしらないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」自分の十字架とはその人に合った(ふさわしい)十字架と言う意味です。ある時、私の友人が夢を見ました。その夢は、自分が十字架を背負って歩いている夢でした。自分だけではなく、自分の周りに十字架を背負って、歩いている人がたくさんいました。前を見ると、大きくて立派な十字架を背負って歩いている人がいました。彼は神様に、自分もあのように大きくて立派な十字架を背負って歩きたいと申し出たそうです。その時、神様は、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさいと言われたそうです。神は私たちにふさわしい十字架を備えてくださいます。それは、問題や苦しみかもしれません。しかし、その十字架は、私たちが負いきれる十字架です。私たちが願うならば、イエスが共に負ってくださる十字架です。十字架を背負ってイエスに従う道は、この世の歩みとは違うために、家族の反対や理解を得られないかもしれません。また、その門は狭く細い道です。しかし、その先に永遠の命があり、たましいへの安らぎがあります。神を信じるとは神の奴隷になると言うことではなく、神との親しい関係を回復すると言うことです。神は私たちを愛しておられ、共に歩みたいと願っておられます。それゆえ、イエスは自分の十字架を負ってわたしに従いなさいといわれたのです。十字架を背負って歩む道は決して、苦難の人生を一人で歩くと言うことではありません。その道は苦難の道であってもイエスが共に重荷を背負い歩いてくださる道なのです。