コリント人への手紙第一15章12節~26節
イエス・キリストの歩みについて学んでいます。先週は、イエス・キリストの十字架の苦しみと私たちの救いについて学びました。今日は、イエス・キリストの復活と私たちの復活について学びます。
- キリストの復活と私たちの復活(コリント人への第一の手紙15章12節~26節)
コリント人への手紙第一15章12節「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。」とあります。この時のコリント教会の問題の一つに、イエスの復活は信じていても、死者の復活(自分たちの復活)を信じていない者がいたということです。それは、イエス・キリストは神の子だから死より復活できても、私たちとは関係なく私たちが復活することはないと考えていた人たちがいたということです。パウロはそのような人たちに対して、キリストの復活と私たちの復活は繋がっていると説明しています。13節14節「もし死者の復活が無いとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰もむなしいものとなります。」初代教会の宣教の中心はイエス・キリストの復活を宣べ伝えることでした。弟子たちは実際に復活したイエスに出会った人たちでした。それゆえ、彼らは外に出て行ってイエスが死より復活したことを力強く宣べ伝えました。また、イエスが死より復活したということは、イエス・キリストが旧約聖書で約束された救い主であることの証明で、弟子たちはイエス・キリストこそ私たちが待ち望んだメシヤ救い主であると宣べ伝えたのです。それゆえ、私たちがキリストの復活を信じないとしたら、私たちの宣教も信仰をむなしいものになるとパウロはコリントの信徒たちに訴えているのです。それどころかパウロは15「私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。」と言っています。さらにパウロは16節~19節「もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなた方は今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」と言っています。キリスト教の土台は、イエス・キリストの処女降誕と死から復活です。聖書はこの二つの奇跡によってイエス・キリストが神の子であり、神と同等の権威をお持ちの方であることを証ししています。また、この二つを信じることが、イエス・キリストを神の子と信じる私たちの信仰の土台なのです。20節「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあります。パウロは、イエスの復活は「眠った者の初穂」と表現しています。死者が生き返る出来事は、旧約聖書にも記されています。死者が生き返ることとイエスの復活とは大きな違いがあります。たとえば、ラザロもイエスによって死から生き返りました。しかし、それはこの世の出来事でラザロも最後には、また亡くなったはずです。しかし、イエスの復活は生き返ったのではなく、復活して新しい霊的な体によみがえりました。イエスは霊魂として弟子たちの前に姿を現わしたのではなく、霊的な体を持って復活されました。また、イエスは私たちの初穂として復活されました。それと同じように、終わり時、私たちも復活したイエスと同じ霊的な体で復活するのです。
- 永遠のいのちと第二の死(ヨハネの黙示録20章11節~14節)
神が六日間で天地すべてを創造された時、死はありませんでした。そういう意味では、最初に創造されたアダムとエバは「永遠のいのち」を持っていたことになります。エデンの園で暮らすアダムに神は言われました。創世記2章16節17節「神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」アダムとエバはヘビ(サタン)に誘惑され、善悪の知識の実を食べてしまいました。しかし、二人はすぐには死ぬことはありませんでした。その後、二人は神によってエデンの園から追い出されてしまいました。神がここで言われた死というのは、肉体の死とともにエデンの園から追い出されるという霊的な死(神に退けられる)の意味も含まれていたのです。
ヨハネの黙示録20章11節から15節まで、最後の審判の場面が描かれています。11節「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」12節「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」とあります。死がすべての終わりであるならば、それほど恐れることはありません。私たちが死を恐れるのは、死後の世界がわからないからです。仏教でもキリスト教でも神の裁きとしての地獄があります。また、私たちは仏教やキリスト教を信じていなくても潜在的に神の裁きとしての地獄に対して恐れを持つ者です。その死の恐れから私たちを解放したのがイエスの十字架の死と復活です。13節~15節「海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」とあります。「いのちの書」に名が記されている者とは、イエスの十字架の死と復活によって罪赦された者です。その者は、第二の死に苦しめられることなく、天の御国において永遠に神と共に暮らすことが出来る。それが聖書の教えです。
しかし、私たちが気を付けなければならないことは、この第二の死から救われるためにイエスを救い主と信じたわけではないことです。大切な事は、この神の裁きから私たちを救うために、イエス・キリストが十字架の上でご自分のいのちをささげられたということです。親は自分の子を救うために自分のいのちも犠牲にします。それは親が自分の子を愛しているからです。それ以上に、イエスは神の子ゆえに罪人を愛し、神の刑罰(第二の死)から私たちを救うために、神の姿を捨てて人として生まれ、十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされました。神はそれほど私たちを愛しておられるということです。私たちの信仰はこの神の愛に応えることです。世界中には色々な宗教があり神々が信じられています。しかし、罪人の身代わりとなり、ご自分のいのちまで犠牲にされた神はイエス・キリストだけです。それゆえ、私たちはイエス・キリストの愛を受け取り、イエスを真の神と信じイエスだけを神として礼拝をささげる者となったのです。