マタイの福音書26章31節~35節
今年もイースターの日が近づきました。今年のイースター礼拝は4月20日です。これからしばらく、イエス・キリストが死から復活されたことの意味について考えたいと思います。
マタイの福音書26章31節32節、「あなた方は、みな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ、すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」とイエスは弟子たちに言われました。「そのとき」とは、最後の晩餐の後、イエスが弟子たちと共にゲツセマネの園に行く前の出来事です。イエスは弟子たちに、これからご自分に起こることについて前もってお話しになりました。それは、弟子たちが自分を一人残して逃げて行ってしまうという出来事です。そのことは、旧約聖書のゼカリヤ書13章7節に預言されていることでした。33節「すると、ペテロがイエスに答えた。『たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。』」ペテロはイエスを尊敬し愛していました。そんな自分がイエスを見捨てて逃げ出すなど考えられないことでした。他の弟子たちも同じ思いだったでしょう。34節「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。』」35節「ペテロは言った。『たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。』弟子たちはみな同じように言った。」とあります。しかし、ゲツセマネの園でイエスが捕らえられると、56節「そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」とあります。ペテロは、イエスの事が心配で、イエスの裁判を見に行きました。しかし、その場において、周りの人々にイエスの弟子ではないかと言われ、そんな人は知らないと、イエスがペテロに言われたように、三度もイエスの弟子であることを否定していました。彼は恐ろしさのあまり、自分のいのちを守るために、イエスの弟子であることを否定してしまったのです。彼は、外に出て行って激しく泣いたとあります。ここに人間の弱さが現わされています。ペテロは決して弱い人間ではありませんでした。それどころか、意志の強い人であったと考えられます。しかし、そのペテロが、危機的な状況に出会った時、自分のいのちを守るために、イエスの弟子であることを否定したのです。もし、私たちもペテロと同じ状況に立たされたらどのような態度をとるでしょうか。捕らえられ、自分も同じ刑罰を与えられるのではないかと考えたら、それでも、イエスの弟子であることを主張することが出来るでしょうか。
この後、イエスは十字架に付けられて殺されました。しかし、イエス・キリストは三日目に復活され、弟子たちにその姿を現わされました。その後、弟子たちはどうしたでしょうか。使徒の働き1章を見ると、弟子たちは、イエスの約束を信じ、祈りながら聖霊が下るのを待っていました。その時、百二十名ほどが集まっていたとあります。そして、使徒の働き2章で、弟子たちに聖霊が下ると、弟子たちは外に出て行って他国のことばで話し出したとあります。また、ペテロは大胆にイエスの復活について宣べ伝えました。その出来事を通して、その日三千人ほどが仲間に加えられたとあります。もし、イエス・キリストが死より、復活されなかったとしたら、弟子たちはイエスの約束を信じて聖霊を待っていたでしょうか。また、教会が誕生したでしょうか。あの、イエスを知らないと言って、イエスの弟子であることを三度も否定したペテロが、人々の前で、イエスが復活したことを大胆に宣べ伝えることが出来たでしょうか。ヨハネの福音書21章で、復活されたイエスがペテロにわたしを愛しますかと三度、尋ねたことが記されています。そして、ペテロに対して、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。この出来事が、作り話や嘘であったとしたら、ペテロは使徒として働くことが出来たでしょうか。彼は、イエスの前に大きな罪を犯しました。もし、本当に、イエスによってその罪が赦されたという出来事がなければ、イエスのために働くということは出来なかったと思います。他の弟子たちも同じではないでしょうか。イエスを見捨てて逃げて行ったという事実は、彼らにとって大きな罪の事実として残ったことでしょう。もし、彼らも復活したイエスと出会うことがなかったら、イエスを見捨てたという罪の重荷に苦しんだのではないでしょうか。しかし、聖書に記されているように、彼らが復活されたイエスと出会い、自分の犯した罪が赦されたということを体験したからこそ、彼らは、いのちを掛けて復活されたイエスを世界中に宣べ伝えることができたのではないでしょうか。
後に登場するパウロも同じです。彼は、以前、激しくクリスチャンを迫害しました。しかし、彼はダマスコに行く途中に復活されたイエスに出会い、自分の間違いに気づかされました。使徒の働きの中で、彼は三度もその事を証しています。彼にとっても、クリスチャンを迫害したと事は、大きな罪と感じたことでしょう。しかし、その罪が赦されたという事は、どれほど大きな喜びだったでしょう。彼の宣教の力の源は、このような罪人を赦す神の愛でした。イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たちの罪の問題の解決でもあります。パウロはコリント人への第一の手紙でこのように教えています。コリント人への第一の手紙15章17節~19節「そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠ったものたちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」
使徒の働き1章8節でイエスは彼らに言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」「わたしの証人」とは、復活の証人ということです。弟子たちは、復活されたイエス・キリストと出会ったことによってイエスの復活の証人となりました。私たちも同じことです。イエス・キリストが十字架に付けられて殺されて終わりなら、その後の事は何も起こらなかったでしょう。また、今の私たちの生活に何の影響も与えません。しかし、確かにイエス・キリストは、死より三日目に復活され、弟子たちにその姿を見せ、天に昇って行かれ、今も生きて働いておられます。私たちは信仰によってイエスの復活を信じる者です。そういう意味で、私たちもイエス・キリストの復活の証人であり、イエスの復活によって罪赦された者です。私たちの罪の問題はすでに解決されました。大事なことは、私たちはイエスの十字架の死と復活によって、罪が赦され天の御国に招かれる者になったということです。それが福音、良い知らせという意味なのです。