イエスの母マリアの信仰

「イエスの母マリアの信仰」ルカの福音書1章26節~38節

5月10日は母の日なので、イエスの母マリアの信仰から学びます。イエスの母マリアについてはカトリック教会とプロテスタント教会ではその評価が分かれます。カトリック教会ではマリアは神の子イエスの母として、彼女の無罪性(神と同じように罪がない存在)を信じています。それ故マリアのことを聖母とたたえ、彼女に祈りを捧げます。しかしプロテスタント教会では、イエスの母マリアを、私たちと同じ弱さを持つ人間であると信じています。私たちは彼女の持つ信仰をたたえ、イエスの母として尊敬はしますが、マリアを神格化して祈りを捧げるということはありません。
では、私たちが尊敬するイエスの母マリアとはどのような信仰を持った人でしょうか。ルカの福音書1章26節から、御使いガブリエルがナザレに住む一人の処女の前に現れたところから話は始ります。
御使いはマリアに言いました。

28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

マリアはこのことばにひどくとまどったとあります。続けて御使いはマリアに言いました。

30節~33節「恐れることはありません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

36節「マリアは御使いに言った。『どうしてそのようなことが起こるでしょう。私は男の人を知りませんのに。』」

この時、マリアはヨセフと婚約をしていました。イスラエルの国では一年間の婚約期間を過ぎた後、結婚生活がはじまります。しかしこの期間も法的には夫婦とみなされていました。それゆえ、マタイの福音書1章19節にあるように、ヨセフはマリアが身重になったことを知り、彼女をひそかに離縁しようと思ったと記されているのです。

驚くマリアに御使いは言いました。
35節~37節「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六カ月です。神にとって不可能なことは何もありません。」

この時のマリアには二つの不安がありました。一つは、男性との関係がない自分に子を身ごもることがあるのだろうかということです。私たちは理解できない出来事に出合うと不安を覚えます。処女が身ごもるということは、現在でも説明ができないことです。御使いは、不安を覚えるマリアに対して三つのことばを通して安心させようとしています。

(1)この出来事が、人間の力によってなされるのではなく、神の計画であること。
35節「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」

(2)親類であり、不妊と呼ばれたエリサベツが高齢にして子を身ごもったこと。
36節「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。

(3)「神にとって不可能なことは何もありません。」

この御使いのことばを聞いてマリアはどのように答えたでしょうか。
38節「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」

もう一つのマリアの不安はヨセフのことです。自分が身ごもったことを知れば結婚は
どうなってしまうのか。ヨセフはこのことを理解してくれるだろうか。もしかしたら、自分は離縁されるか、または姦淫の罪で殺されるかもしれないと。神の計画に従うならマリアは非常に困難な立場に立たされることになります。それでもマリアはすべてをゆだねて神の計画を受け入れたのです。
私たちがマリアの立場に立たされたらどのような行動をとるでしょうか。マリアのように危険を承知の上で神のことばに従うことができるでしょうか。旧約聖書に登場するモーセやヨシュアも同じような難しい使命を神から与えられました。モーセが神からイスラエルの民を、エジプトの苦しみから助け出すように命じられたのが80歳の時でした。彼はこの神の命令に対して、自分は(口下手)ことばの人ではないことを理由に、別の人を使わしてくださいと尻込みをしています。モーセの死後、神よりイスラエルの民のリーダーとして指名されたのがヨシュアです。ヨシュア記1章を読むと、神がヨシュアを一生懸命励ましていることばがたくさん見られます。それほどヨシュアは神の使命に恐れおののいていたのです。それでも二人は神のことばに従いました。それは、神が共にいてくださるという約束をいただいたからです。私たちが困難な状況に立たされた時、私たちはどのように祈るでしょうか。普通は「神様、助けてください」「神様この苦しい状況を取り除いてください。」と祈るでしょう。以前、渡辺和子さんのことば「請求書の祈りと領収書の祈り」ということばを紹介しました。「請求書の祈り」とは、自分の要求を神に祈ること「領収書の祈り」とは、神に従いますと祈ることです。私たちはたくさんの「請求書の祈り」はしますが、なかなか喜んで「領収書の祈り」をすることができません。私たちが「領収書の祈り」をするためには神への信頼がなければできないことです。私たちは理由のわからない苦しみや、先の見えない苦しみには不安を覚えます。しかしイエスの母マリアは「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と祈りました。その土台となったのは、御使いが言われた「神にとって不可能なことは何もありません。」ということばでした。私たちはどのように毎日祈っているでしょうか。