「イエスを主とする」ルカの福音書9章28節~36節
先週は群衆も弟子たちもイエス様に間違ったメシヤの姿、期待を持っていたことをお話ししました。そして、イエス様は弟子たちには、今後イエス様に起こる迫害と十字架の死と復活についてお話しになられました。しかし、弟子たちは誰もそのことを理解することができませんでした。
今日の聖書の箇所は、イエス様が誰であるのかを弟子たちに伝えるために、三人の弟子を選び、山の上でイエス様が初めて本当の姿を弟子たちの前に現された有名な箇所です。ここでイエス様が選ばれた、ペテロとヨハネとヤコブは、後の教会の中心となる人物です。この箇所で大事な事は、イエス様が誰とお話ししていたかという事です。ペテロはこの時、モーセとエリヤとイエス様が話しあっているのを見ました。そして、ペテロは感動し、イエス様に3つの幕屋を造りますと言ったのです。「幕屋」とは、神を礼拝する聖なる場所のことです。その時、雲の中から声がしました。35節「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言う事を聞きなさい。」モーセは律法を代表し、エリヤは預言書を代表する人物です。また、二人は旧約聖書を代表する人物です。ここで、神様はモーセやエリヤではなく、イエス様の言葉に従いなさいと言われたのです。イエス様は旧約聖書の教えを否定したわけではありません。ただ、旧約聖書の教えは救いを完成する教えではありませんでした。なぜなら、誰も律法の教えを完全に守ることができなかったからです。救いは、イエス様の十字架の死と復活によって完成されました。それ故、パウロは人は信仰によって救われると教えたのです。
律法による救いと信仰による救いとの違いは何でしょうか。律法による救いは、律法による教え(神様の教え)を完全に守らなければ救われないという教えです。ユダヤ教の律法の教師たちはそのために熱心に旧約聖書のことばを研究しました。しかし、彼らは完全に守ることができませんでした。後に、パウロは旧約聖書のことをキリストへ導くための養育係と表現しました。律法はキリストに導くための教えであり、律法自体には救いはないという意味です。確かに律法は私たちに神様の教えが何であるかは教えましたが、救いの道は示すことはできませんでした。
では、信仰による救いとは何でしょうか。信仰による救いとは、イエス様が誰で、何をされたか、十字架の死の意味を理解することです。イエスとは誰でしょうか。聖書はイエス様を神(神の子)と教えています。今日の聖書の箇所でも、イエス様は弟子たちにそのことを伝えるために三人の弟子を選び、山の上で本当の姿、神の姿を弟子たちに見せられたのです。また、イエス様を神(神の子)と信じるという事は、イエス様の処女降誕と死より三日目に復活されたことを信じるという事です。処女降誕と復活はイエス様が神の子であることの証拠です。この2つの奇跡を信じないという事は、イエス様を神の子と信じないで、私たち人間と同じ罪ある人間と理解するという事です。そこには私たちの救いの完成はありません。また、十字架の意味も同じです。イエス様の復活を信じないなら、イエス様の十字架の死はイエス様の宣教の働きの失敗を意味します。しかし、聖書は、イエス様の十字架の死は私たちの罪の身代わりの死であり、イエス様の死よりの復活は私たちの救いの完成を意味していると聖書は教えています。もし、イエス様が復活されなかったのなら、私たちの救いの計画は失敗し、私たちの罪の問題は解決されなかったのです。
つまり、信仰による救いとは、イエス・キリストが、神の子であり、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれ、三日目に復活されたことを信じるという事です。そのために神様は私たちに聖書を与えて下さいました。私たちは、聖書を通して、イエス様が誰であり、十字架の意味が何であるかを教えられたのです。
使徒の働きに登場するパウロという人は、律法学者で、神様の教えを一生懸命に守ろうとした人です。それ故、彼はキリスト教を激しく迫害しました。パウロはイエス様の復活を信じないで、弟子たちの作り話だと考えていたのです。ところが、パウロがダマスコにいるクリスャンを捕らえに行く途中、復活されたイエス様に出会いました。パウロは自分の間違いに気付き、イエス様の復活を信じる者となり、世界中にイエス様を伝える最初の宣教師となったのです。
パウロは、復活したイエス様と出会って、今まで自分が学んだことをすべて捨てさってイエス様について一から学び始めたとあります。パウロほど、旧約聖書の知識に通暁している人はいませんでした。しかし、彼は今までの知識を捨てさって、もう一度、旧約聖書を研究し直したのです。そして、パウロは旧約聖書の中にイエス・キリストを見出したのです。それ故、パウロの説教は、ユダヤ人たちにも大きな影響を与えたのです。
私たちも、自分の経験からイエス様を理解しようとします。私も、はじめ、イエス様の処女降誕と復活を信じていませんでした。それは人間には不可能なことで、イエス様を信じさせるために弟子たちが作った作り話としか思えませんでした。しかし、聖書を読むうちに私の心は変化しました。私は自分の経験を捨て去ったのです。人間には不可能でも、神の子には不可能はない。この時、私の心はイエス様を神の子と受け入れたのです。理解したのではなく、受け入れたという事が大切です。受け入れるとは、イエス様を神の子と信じたという事です。それは、人間の力ではなく、神様の恵みでした。私たちは、自分の考え、知識を持って物事を考えた場合、人間の理解を超えることはできません。救いは神様の御業です。私たちが自分の経験、知恵、偏見を捨て去った時、私たちは、初めて神様の声を聞くことができるのです。山の上で、三人の弟子たちは神様から、モーセやエリヤではなく、イエス様のい言うことを聞きなさいと言われました。今、私たちは誰のことばに耳を傾けているでしょうか。