イエスを王として出迎える人々

「イエスを王として出迎える人々」ヨハネの福音書12章12節~18節

アラジンと魔法のランプという昔話があります。ある時、アラジンは魔法のランプを見つけ出し、そこからランプの魔人を呼び出しました。そしてランプの魔人が三つの願を叶えるというお話です。似たようなお話が聖書の中にも登場します。ダビデの子ソロモンが王に就任した時、神様はソロモンの夢の中に現れ、ソロモンに何か願うように命じました。その時、ソロモンは、王国を広くすることや、財宝や、軍事力を求めないで、イスラエルの民を賢く導くために知恵を与えてくださいと願いました。この願いは神様の御心にかない、ソロモンは、神様から、知恵と、それだけではなく、多くの財宝と権力を与えられました。もし、私たちがソロモンの立場にいたら、神様に何を願い求めるでしょうか。

先週、イエス様の足にナルドの高価な香油を注いだマリヤの出来事から学びました。今日は、その翌日、イエス様が、ろばの子に乗ってエルサレムに入られるところから学びます。イエス様がエルサレムに来ようとしているのを聞いて、人々は、しゅろの木の枝を取って、イエス様を出迎えに出て行ったとあります。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書にもこの場面は登場します。しかし、ヨハネの福音書だけが、民衆がイエス様をしゅろの木の枝を取って出迎えたとあります。実は、しゅろの木の枝で迎えるということには意味があります。それは、戦争で勝利した王や革命家を迎える時に、人々はしゅろの木の枝をふっつて王の勝利の凱旋を迎えたのです。この時、群衆は、イエス様がラザロを死より生き返らせた出来事を聞いていました。旧約聖書で、死人を生き返らせた預言者はエリヤとエリシャがいます。群衆はイエス様がラザロを死より生き返らせることによって、イエス様をエリヤやエリシャのような偉大な預言者が現れたとイエス様を大喜びで出迎えたのです。また、群衆は、旧約聖書で預言されているメシヤを待ち望んでいました。彼らが待ち望んでいたメシヤは、ローマの支配からユダヤの国を独立させる勇猛な王様を待ちわびていたのです。イエス様は、群衆がそのような王として自分を迎え、また、自分を王に祭り上げて、ローマ政府と戦うことを期待していることを知っていました。それゆえ、イエス様はあえて馬ではなく、ロバに乗って平和の王としてエルサレムに入場されたのです。またその姿を旧約聖書の預言者ゼカリヤが幻を見て、ゼカリヤ書9章9節に記し、ヨハネは、イエス様の入場をゼカリヤ書の預言の成就として、ここに証言しているのです。

13節で、人々はイエス様に「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られた方に。イスラエルの王に。」と呼びかけたとあります。「ホサナ」とは、救ってくださいという意味で、詩篇128篇にも同じ言葉が登場します。群衆はイエス様にユダヤの国をローマの支配から救ってくださいと期待したのです。祭司長、民の長老たちはイエス様のこの人気に驚きました。そこで、彼らは、イエス様を殺すのは、この過越しの祭りの後にしようと話し合ったのです。それは、イエス様を捕らえることで群衆の暴動が起こるのではと恐れたからです。しかし、そのすぐ後で、群衆はイエス様から離れてしまいました。イエス様が彼らの期待に応えるような軍事的な行動を一切行わなかったからです。また、祭司長、民の長老たちはこの群衆の動きに敏感でした。人々がイエス様から去ったこの好機にイエス様を捕らえて処刑することを決めたのです。

ご利益宗教という言葉があります。お金持ちになれるとか、どんな病でも治ると教えて人々の関心を集め、人々を利用する宗教です。同じキリスト教でも、ご利益を強調するグループがあります。私たちが、自分の願いを神様に押し付けるなら、それは、信仰ではなく、神様を利用することになります。私たちは、神様に、病のいやしや問題の解決を願います。しかし、それは、何が何でもというわけではなく、御心ならばという祈りが伴います。最終的に決めるのは神様です。私たちはその神様の決定に従うことが信仰なのです。イスラエルの民がイエス様に求めたのはご利益宗教と同じでした。彼らは、イエス様が自分たちの願い通りに行動しないことに失望し、イエス様から離れてしまったのです。イエス様が人としてこの世に誕生されたのは、ユダヤの王となり、国を独立させることではありませんでした。私たちの罪の身代わりとして、私たちの罪を背負って十字架で死に、私たちの罪の問題を解決するためでした。私たちがイエス様を神として信じ従うのは、イエス様が、神の子でありながら、人として誕生され、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死なれたからです。偉大な奇蹟を行う神々なら世界中にいくらでも存在しています。しかし、どこに、罪人のために自分のいのちを犠牲にする神々が存在したでしょうか。人間が考える神とは、偉大なお方で、人間が近づくことができないほどの高貴な存在です。しかし、イエス様はあえて、神の姿を捨てて、人として生まれ、十字架の上で苦しみを受けて死んでくださいました。ここに、偉大な真理が隠されています。ユダヤ人たちは、偉大な神が罪人の中に生まれるということを信じることができずに、イエス・キリストを神を冒瀆した罪で殺してしまいました。今でも、神が人として生まれたことと、イエス様が死より三日目に復活されたことを多くの人々は信じることができません。しかし、神はそのような愚かな姿を通して人々に信じる力を与えてくださいました。私たちがイエス様を神の子と信じることができるのは、人間の知恵や力ではなく、神様の力です。私たちは神様の力によってはじめて、イエス・キリストを神の子、神と信じることができるのです。人間の力で信じるなら、人々は自分の努力や知恵を誇るでしょう。神によって救われた者は、神のみを褒めたたえる者となるのです。